- 村上晃一
- 2020年12月31日(木) 10:45

高校ラグビーフットボール大会の主役は、選手たちだけではない。高校野球と同じように、優勝や連覇の裏には必ず『名将』がいる。『ラグビー・マガジン』元編集長でラグビー・ジャーナリストの村上晃一氏が、花園を盛り上げてきた歴代の名将たちの系譜を振り返る。
100回目を迎える全国高校ラグビーフットボール大会の歴史の中には数多くの名指導者が存在した。少年から大人への階段を上り始めた世代を、全国トップレベルのチームに育て上げるためには、技術的指導だけでは足りない。無償の愛をもって心技体を鍛え、チームを結束させなくてはいけないのだ。そんなきめ細やかな指導を粘り強く続け、全国トップレベルのチームを作った指導者を紹介してみたい。
国学院久我山・中村監督の台頭、名選手を育てた大阪工大・荒川監督

第二次世界大戦後、最初に名をはせた監督と言えば新井隆吉だ。1949年、東京の保善高校ラグビー部の監督に就任し、軽量FWながら展開力あるラグビーを磨き上げた。1954年の第33回大会から12年連続出場し、4回優勝という「保善時代」を築いた。
この時代、保善のライバルだった秋田工業には佐藤忠男監督がいた。30年間、教員としてラグビー部を指導し、全国大会8度、国体で12度頂点に立っている。
佐藤監督は秋田工業から初めて早稲田大学ラグビー部に進んだ人で、指導の根幹には早稲田ラグビーがあった。「精魂尽くして颯爽(さっそう)たり。顧みるときの微笑み」をスローガンにした。のちに自分を振り返ったとき、ほほ笑むことができるように一瞬一瞬のプレーに全力を尽くすという意味だ。
昭和40年(1965年)代に強烈なインパクトを残したのは猛練習で知られる目黒高校の梅木恒明監督である。実戦を重視し、年間200試合することもあったという。遠征先で負けると、丸一日走って宿舎に帰らせるなど、心身ともに鍛えぬいた。無類のフィットネスを誇り、1968年の第47回大会に初出場で準優勝を果たすと、そこからの10大会で8回決勝進出、優勝4回という「目黒時代」を築いた。
東京で目黒のライバルだった国学院久我山の中村誠監督も忘れてはならない名将だ。梅木監督と同じ日体大卒。練習試合も意地の張り合い。切磋琢磨(せっさたくま)し、目黒とは花園の決勝で3度対決し、2勝1敗と勝ち越している。

名選手を多数輩出したという意味では、大阪工大高(現・常翔学園高校)の荒川博司監督が際立っている。小細工せず、卒業後の成長を重視して基礎体力作りと、基本プレーの徹底に時間を費やした。その指導方針が選手を育て、日本代表No.8河瀬泰治(現・早稲田大学FB河瀬諒介の父)、HO藤田剛、WTB東田哲也、CTBとして79キャップを獲得した元木由記雄ほか、卒業後、大成した選手は数えきれない。
荒川監督は、6度目の全国大会出場となった第57回大会で決勝に進出し、秋田工業を破り、初優勝を飾った。
熱血指導と先端理論を融合させた、伏見工・山口監督
その大阪工大高を第60回大会決勝で下したのが、京都の伏見工業である。監督は「泣き虫先生」と呼ばれた山口良治。元日本代表のフランカーにして、名プレースキッカーでもあった。ここまで紹介した指導者も、以降の優勝監督にも元日本代表選手はいない。
1974年、荒れていた高校に体育教師として赴任し、体当たりで生徒を指導。ラグビー部も立て直していく。6年後には全国大会に初出場。その翌年に日本一になるのだから、強化の速度に驚かされる。日体大、日本代表で経験したディフェンスに接近しながらパスをつなぐランニングラグビーを教え込み、「信は力なり」という言葉に代表される熱血指導と先端理論を融合させての優勝だった。
選手にも恵まれた。後に日本代表の中心となるLO大八木淳史、SO平尾誠二を同時期に得た。平尾については、中学時代のプレーに魅了されて声をかけた。
「ほれぼれ、という言葉がありますが、彼のプレーは終始私をひきつけて離しませんでした」。他の高校に行こうとしていた平尾に「一緒に日本一になろう。世界を目指してラグビーをしよう」と夢を語った。
平尾はのちに語っている。「あのとき一緒に、と言われなかったら伏見工に行かなかったでしょう」。「俺が日本一にしてやる」ではなく、「一緒にやろう」にひかれたのだ。
伏見工業の初優勝までの軌跡は、テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルになってヒットし、ラグビーの競技人口増加にも貢献した。伏見工業は、第72回大会でも優勝。80回大会、85回大会は初優勝時のSH高崎利明が監督となって優勝している。多くの教え子を教育系大学に進学させ、後継者を育てたという意味でも特筆すべき名監督だ。