連載:高校ラグビー100回記念特集 〜俺たちの花園〜

高校ラグビー100年「名将の系譜」 花園を彩った、その個性と情熱

村上晃一

「伝説の3人飛ばし」徳増監督が起こした“茗溪旋風”

 名監督の多くは保健体育科の教員だが、異色の日本一監督がいる。1988年度の第68回大会で、大阪工大高とともに優勝旗を掲げた、茨城・茗溪学園の徳増浩司だ。

 ICU(国際基督教大学)卒で西日本新聞の記者を務めていた頃には、福岡県の名門ラグビースクール、草ヶ江ヤングラガーズで指導員をしていた。1975年に来日したウェールズ代表のプレーに魅了されたことをきっかけに、単身ウェールズに渡り、カーディフ教育大学でコーチングを学ぶ。帰国し、英語教師として茗溪学園に職を得て、本格的にラグビーの指導者となった。

 英語を教える傍ら、ウェールズが世界を席巻した個人技を軸にした自由奔放なラグビーを茗溪学園中学の生徒に教え込む。進学校のため練習は短時間だ。グラウンドに砂を入れてやわらかくし、足腰を鍛えるなど工夫を凝らした。その後、同学園の高校ラグビー部の監督になると花園で変幻自在のラグビーを披露し、「茗溪旋風」を巻き起こす。SO赤羽俊孝の「3人飛ばし」のロングパスは、ラグビーファンの語り草だ。

 大阪工大高との決勝戦は、昭和天皇崩御で中止となり両校優勝となった。力の大阪工大高、技の茗溪学園の対決が実現していたら、高校ラグビー史上に残る名勝負となったかもしれない。

 徳増はその後、日本ラグビーフットボール協会に勤務し、2003年からは16年以上、ラグビーワールドカップの招致、準備、運営にたずさわり、世界のラグビーを統括する団体であるワールドラグビー理事、アジアラグビー会長などを歴任。ラグビーワールドカップ日本大会の成功に尽力した。どこまでも異色の指導者なのである。

啓光学園・記虎監督は“改革”で4連覇達成

ニュージーランド留学の経験をもとに、啓光学園のチームを変えていった記虎監督 【写真は共同】

 以降の花園での偉業といえば、大阪の啓光学園の4連覇だ。

 記虎敏和は、天理大学を卒業後、母校である啓光学園の教諭になり、1980年度よりラグビー部の監督に就任した。

 名監督の例にならい、記虎も就任当初は厳しい練習を選手に強いる監督だった。しかし、1989年にラグビー王国ニュージーランドで見た光景が転機となる。

 選手たちが楽しげに芝の上を駆けまわっている姿に心を奪われたのだ。記虎は、己に勝つ厳しさだけを教えていた指導を自己満足だったのではないかと恥じた。そして、選手自らが考えて動くチーム作りに着手する。

 小柄な選手が多いチームだからこそ、ディフェンスに磨きをかけ、ターンオーバーからボールをスピーディーに展開するスタイルを構築した。初優勝は1991年度の71回大会。1998年度の78回大会で大阪工大高との決勝戦史上初の大阪対決を制して2度目の戴冠。そして、2001年度の81回大会からは監督として3連覇し、4連覇目は総監督として教え子の杉本誠二郎監督を支えた。

「派手に勝たなくていいから、確実に勝つチームにしたかった。悔しい負けがいっぱいあったからです」。選手に悲しい思いをさせたくない。その一心で自らを見つめなおし、学び続けた4連覇だった。

 その後もたくさんの名指導者が高校生たちを頂点に導いた。89回から91回大会で3連覇を成し遂げた東福岡の谷崎重幸監督も、記虎と同じくニュージーランド留学で刺激を受け、ラグビーというボールゲームを思い切り楽しむ指導で常勝軍団を作り上げた。

東福岡の谷崎監督も記虎監督と同じように、ニュージーランド留学の経験からチーム作りのヒントを得て成功した 【写真は共同】

 第86回大会優勝の東海大仰星は「高校ラグビー史上最強」の呼び声が高い。率いたのは東海大学出身の土井崇司。フィールドを細分化して、どの位置でどんなプレーを選択するかを教え込み、理詰めで勝利を手繰り寄せた。最強チームのSOは、2019年のラグビーワールドカップで日本代表のFBを務めた山中亮平だった。

 仰星はこのとき2度目の優勝で、79回大会の優勝時にキャプテンだった湯浅大智が86回はコーチとして土井監督を補佐し、93、95、97回大会では湯浅が監督として優勝している。

 湯浅は、キャプテン、コーチ、監督として仰星の5回の優勝すべてに関わった。学校での勉強や生活態度がフィールドにどう影響するかを説き、大一番では的を絞った指示で選手の能力を最大限に引き出す勝負師でもある。過去のさまざまな名監督の長所を兼ね備えたハイブリッドの名監督と言えるかもしれない。

 ラグビーはフィールドに立てば監督の指示ではなく、選手自身がすべてを判断するスポーツだ。指導者の仕事は選手たちが最高に輝ける準備をし、フィールドに送り出すことである。本稿で紹介した指導者は日本一になった名監督ばかりだが、頂点に立てなくとも、情熱をもって選手と接し、選手の能力を最大限に引き出そうと奮闘する指導者は数多くいる。

 目を輝かせてコーチの話を聞き、全力でプレーする高校生がいる限り、新たな名監督は必ず生まれる。その出現を楽しみに待ちたい。(文中、敬称略)

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著者プロフィール

1965年、京都府生まれ。京都府立鴨沂高校、大阪体育大学卒。大学時代は、FBとして活躍。85年、同志社大学の関西大学リーグの連勝記録を71でストップさせた試合に出場。翌年、東西学生対抗の西軍FBに選出される。卒業後、ベースボールマガジン社に入社。90年から97年まで「ラグビーマガジン」編集長。現在はフリーのラグビージャーナリストとして、多くの雑誌に執筆。「JSPORTS」のあらゆるカテゴリーの解説をこなしている。編集者としても、ジャンルにこだわらずに単行本を手がける。著書に、大学時代の恩師であり、元日本代表名ウイング坂田好弘氏の伝説を追った「空飛ぶウイング」などがある。

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