リーチ・マイケルが伝えたい花園の記憶「強くなるのは自分の責任」
コロナ禍の中、高校生ラガーマンにエールを送るリーチ・マイケル 【撮影:少路昌平】
花園は自分の力を試す場だった
日本の高校ラグビーのレベルの高さです。ニュージーランドの強い学校から日本に来て、山の手は札幌の中では強かったけど、花園に行ったら札幌のラグビーと全国のラグビーの差があまりにも大きかった。(1年生の時に5-89で完敗した)正智深谷の試合が、僕の原点になりました。山の手と正智深谷の差、自分の実力と正智深谷のトンガ人留学生の大きな差を感じて、すごくいい刺激をもらいました。
――ご自身のラグビー人生において、花園はどういう舞台だったと感じますか。
全国からベストの選手が集まる中で、自分の力がどのレベルにあるかを試す場だったと思います。大会中にいろんなチームや選手を見て、自分との差を感じる試合がたくさんあった。そこから、次の年に何をすれば強くなれるかを考えていました。
――全国からあれだけのチームが集まる大会は、ニュージーランドにはないですよね。
ないです。だから最初は花園がどういう大会か分かっていなくて、日本の高校生にとってどれだけ大きいものかも分からなかった。実際に試合に出てみて、「こういうものなのか」と。それで次の年も、その次の年も、結果を残すためにがんばりました。ニュージーランドではそういう経験がなかったので、すごく楽しかったですね。
――1年生の時と、2、3年生の時で、花園の捉え方も変わったのではないですか。
1年生の時は本当に何もわからなかった。2年生になって、だいぶ花園の重要さが分かるようになりました。そこで活躍すれば大学にも行けるし、山の手を強くするためにこれをしなければいけないという新しいスタンダードもできた。そういうことをたくさん学びました。
――かつて「花園は悔しい思い出ばかり」と語っていました。
本当に悔しい思い出ばかりです。1年生の時は1回戦を勝ったけど、2回戦で正智深谷に負けて、2年生の時も大阪工大高に負けて(0-55)、関西との差を初めて感じました。3年生の時は、萩商工に負けるとは誰も予想していなかった(0-34)。
僕らは、どこか自分たちの実力を勘違いしていて、必死さが足りなかった。幹夫先生(佐藤/監督)も勝つつもりで、もっと日程の後の飛行機を予約していて、そのぶん長く花園にいられたのは、唯一の楽しい思い出ですね(笑)。
――いまでも記憶が鮮明ですね。
相当強く印象に残っています。ずっと思っていたのは、この中で一番強くなれば日本代表になれる、ということ。花園でインパクトを残して(次のステージへ)進んでいけば、と思っていました。
――同世代は、のちに何人もの選手がジャパンになるすごい世代でした。
山中亮平、木津武士、田村優もいました。みんな大学でも強いチームに行って、彼らと対戦するのはすごく楽しかったです。
キャプテンとして、精神的支柱として日本のラグビー界をけん引する 【写真は共同】
178cm、78kgくらい。(大きくなったのは)幹夫先生にびっくりドンキーに連れて行ってもらって、たくさん食べたから(笑)。2年生からはそば屋さんに下宿して、そこのお父さんが食事を全部食べ終わるまで帰らせてくれなかった。寝る前にもトースト8枚とか食べていました。
1年生から2年生までに10kg近く増えて、3年生の時には100kgちょっとになりました。トンガ人の留学生に勝つためには体を大きくしなければと思っていたし、高校日本代表になりたくて、一生懸命がんばりました。
――なぜ、そこまで高校日本代表になりたかったのですか。
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