師であり、父であり、ときには友にも A東京・田中大貴と陸川章監督のキズナ
前編・師の言葉を胸に刻み、18歳の分岐点で田中大貴が選んだ道
東海大学時代の恩師、陸川章監督に厚い信頼を寄せる田中大貴 【圓岡紀夫】
指導者である自身の信条として20年にわたり選手たちにもそう説いてきた。
「たとえ今、苦しいことがあったとしても、いつかそれが自分に必要なものだったことに気づくときがくる。そう思える生き方をしてほしい」――毎年巣立っていく卒業生たちの中にはBリーガーとして活躍する選手も多いが、厳しいプロの世界で壁に突き当たったとき、陸川監督のこの言葉を思い出す者も少なくないのではなかろうか。昨シーズンのB1リーグMVPを受賞した田中大貴(アルバルク東京)もその1人だ。今や日本を代表する選手として名が挙がる田中だが、大学の4年間を通して陸川監督から受けた影響は多大だという。
「今の自分の考え方やものの見方はリクさん(陸川監督)から学んだものが基本になっていると思います。リクさんと出会ったことは自分にとってすごく大きなことでした」
地元、県立長崎西高校で自分を磨き全国区へ
レギュラーシーズンMVPを獲得した田中大貴。日本を代表する選手に成長した 【写真提供:アルバルク東京】
県下有数の進学校として知られる長崎西の部活動時間は短い。
「部活時間は1時間半と定められていて、その短い練習時間をいかに効率よく使うかも重要なことでした。多くはディフェンスの強化に充てられ、オフェンスが2に対してディフェンスが8ぐらいの割合。とにかくディフェンスの練習が多かったですね。でも、おかげでディフェンス力は付きました。あのとき培われたものが今の自分のディフェンスの核になっていると言っても過言ではありません」
鍛えられたディフェンスを武器の1つとした長崎西は田中が在籍した3年間でウインターカップ連続出場を果たす。が、インターハイ出場は2年次の1回のみ。3年次にキャプテンを務めていた田中にとって最後の夏の舞台を逃したショックは大きかった。キャプテンとして、エースとして、チームを全国の舞台にけん引できなかった自分を責め、進学校ゆえに早々と受験モードに切り替えていく周りとの温度差に苦しみ、目指してきた道の行方が閉ざされてしまったような挫折感。「このままバスケットを辞めてしまおう」――気持ちはそこまで追い詰められていた。
母の克江さんは当時の田中のことをこう語る。
「大貴は家を出て学校の近くで他のバスケット部員の人たちと寮生活を送っていたんですが、インターハイ出場を逃したあと電話がつながらなくなってしまったんです。電話をかけても全く出ない。おそらく誰とも話したくないほど落ち込んでいたんだと思います。親としては見守ることしかできませんでしたが、あれほど心配したのは初めてでした」
それだけに本人が立ち直り、ウインターカップ予選を勝ち抜いたときの喜びと安堵(あんど)感は今も忘れられない。
「私もうれしかったですが、なにより大貴本人が本当にうれしそうでした。ホッとした気持ちも大きかったと思います。バスケットを辞めたいと言ったのは後にも先にもあのときだけでしたが、先生や周りの方の助言もあって乗り越えることができました。今となってはとても貴重な経験だったような気がします」
そんな田中の気持ちの浮き沈みも含め、彼のプレーを追い続けてきたのが陸川監督だ。