師であり、父であり、ときには友にも A東京・田中大貴と陸川章監督のキズナ
一度はあきらめかけた道に連れ戻した陸川監督の言葉
18歳の田中大貴を支えたのは東海大学の陸川章監督だった 【圓岡紀夫】
もちろん「田中大貴が欲しい」というチームは東海大だけではなく、長崎の実家には何人もの大学のコーチがあいさつに訪れた。その中で東海大を選んだ理由は「やっぱりリクさんの“熱さ”でしょうかね」と、田中は笑う。
「実は東海に行くか、青学(青山学院大)に行くか最後まで迷いました。青学には1年上に比江島慎選手(宇都宮ブレックス)がいて、その比江島選手と同じチームで切磋琢磨(せっさたくま)するか、対戦相手として競い合うか、その選択でもあったんです。そのときリクさんが『いっしょに比江島くんがいる青学と戦おう』と、すごく熱く言われて、なんていうかどこよりも自分が求められている気がしたんですね。東海ならおそらく最初から使ってもらえるんじゃないか、一番成長できるんじゃないかと思いました」
こうして東海大への入学を決めた田中は、スタートする大学の4年間に新たな希望を抱いて長崎を離れた。だが、それからわずか2カ月後、深い悲しみとともに急きょ帰郷することになる。父、昭敏さんの訃報が届いたのは2010年6月のことだった。
「あのときのことはあまり思い出したくないんですが」と、前置きをして田中は語る。
「父が亡くなったことで大学を辞めることを考えました。大学に通うとなるとお金もかかるし、家族に負担をかけることになる。それを考えたら大学に戻ってバスケットを続るよりこのまま長崎に残って働いた方がいいんじゃないかと思ったんです。今思っても精神的にかなりきつかったですね。正直、バスケットを続ける気力も失いかけていました」
父の享年は50。肺がんの告知を受けてから1年3カ月、どこかで覚悟はしていたつもりだったが、その喪失感は想像をはるかに超えていた。長男である田中の下には2歳違いの弟と8歳違いの妹がいる。高校生と小学生の2人を母に任せて、自分だけが好きなバスケットを続けるのは間違っているのではないか? 長男の自分が今やるべきことは大学に戻ることではなく、働いて家族を支えることではないのか? そんな思いがぐるぐる頭を駆け巡っていた。
一方、葬儀に列席するために長崎を訪れた陸川監督は集まった親族、さらには地元の人たちからたくさんの“願いの言葉”を聞くことになる。
「大貴の故郷は海沿いの小さな町で、のどかでとてもきれいなところです。私が歩いていると親族の方や近所の方が次々とあいさつに来てくださるんですね。言われることはどの方も皆同じ。『これからも大貴を頼みます』『大貴をどうかよろしくお願いします』。本当に皆さんが異口同音にそうおっしゃる。私を見て真剣な顔でそうおっしゃるんです。『わかりました』と答えました。『わかりました。大貴は私に任せてください』と、私も真剣な顔でそう答えました」
このとき、陸川監督は田中の中に芽生えた葛藤を知る由もなかった。田中から電話があったのはその数日後のことだ。
「なぜだかわからないんですけど、あの日、どうしてもリクさんに電話をかけたくなったんです」と、田中は振り返る。自分がどんなことを話したのか、陸川監督がどんな言葉を返してくれたのか、記憶は曖昧だ。「ただ1つはっきり覚えているのは、自分が何かを言ったあと、リクさんが『大丈夫。これからは俺がおまえの父親代わりになる』と言ってくれたことです。そのひと言を聞いたとき、自分はすごく救われたような気がしました」
「うちのことは心配しなくていいからあなたは大学に戻りなさい」と、言ってくれた母、「バスケットを頑張るおまえをお父さんはきっと見ているぞ」と、背中を押してくれた高校の恩師、故郷の人たちはみんな温かい言葉で励ましてくれ、大学のOBたちはバスケットを続けるために尽力してくれた。1つひとつ思い出すたび、今も感謝の気持ちでいっぱいになる。だが、その中でもっとも鮮やかによみがえるのは、やっぱりあの日のひと言だ。電話の向こうから聞こえた陸川監督の力強い言葉。
「大丈夫。これからは俺がおまえの父親代わりになる」
「大学に戻ろう」と決めたのはそのときだったかもしれない。「この人の下でもう一度バスケットを頑張ろう」――それが18歳の分岐点で田中が選んだ道だった。
(企画構成:バスケットボールキング)
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