連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

17歳でプロデビュー、19歳で東京V主将に 小林祐希の自立心が大きく育まれた幼少期

前編:幼稚園生の時に才能の芽をのぞかせる

母親のゆかりさんは2019年夏、古巣のジュビロ磐田の練習に参加していた小林祐希の下へ激励に訪れた 【写真提供:小林選手ご家族】

 小林祐希が5月12日にTwitterに投稿した「いつも子どもみたいにはしゃぐ」、あのパンチの効いたお母さんを想像して取材に臨んだが、実際に会ってみると、ゆかりさんは控えめで、語り口もゆったりしていた。Twitterでの印象を伝えると、「そうですね、いつもあんな感じです」と言いつつ、表情は沈んだままだ。

 一人親で苦労が絶えなかったのか。もしかしたら過去を振り返ることにつらさもあるのか。そんなことを考えながら、祐希について話を振る。「幼稚園の年中の時にサッカーを始めて、親の目から見て当時からうまかったと思いますか?」。遠慮がちに口を開く。「こんなこと言うとアレですけど……」。急にニッコリと笑顔になる。「本当にうまかったんですよ」

 祐希は東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)のアカデミーで育ち、2010年3月、17歳の時にプロデビュー。11年シーズンに正式にトップチームに昇格し、翌12年シーズン、19歳にしてキャプテンと背番号10を託され、その後ジュビロ磐田を経て16年から海外でプレーを続ける。同年に日本代表で初キャップを刻み、これまで8試合出場1得点。昨夏からベルギーのベフェレンに所属、28歳となったゲームメーカーは今まさにキャリアのピークを迎えようとしている。

 サッカーを始めたのは、JACPA東京FCに入団した年中の時だった。ゆかりさんは息子が国内有数のプレーヤーとなった今でもサッカーのことは「よくわからない」。ただ、元気な男の子にめいっぱい運動させ、毎日ぐっすり眠ってもらおうと、周りから話を聞きつつ息子の意思を尊重してJACPA東京FCに通わせた。祐希自身は当時リフティングに夢中だった。「その時はサッカーが好きなんじゃなくて、リフティングで誰にも負けたくなくて、ずっと練習していた」

 すぐに才能の芽をのぞかせた。リフティングに注がれていた向上心は、サッカーの技術習得へも波及した。「中村俊輔(現・横浜FC/元日本代表)選手のフェイントを、ビデオで1時間ぐらい繰り返し見ていて、変な子だなと思っていたら、次の日の練習で同じことをやっていたんですよ。『すごーい!』って鳥肌が立ちましたね」(ゆかりさん)

 トークのエンジンがかかってきたのかと思いきや、以降もゆかりさんは質問するたび、言葉を選びながら答えた。それでも、秘めた思いを隠せない。どころか、息子愛が前面に出ていた。愛息への連絡は「1カ月に1回しているかどうか。忙しいと思うから、年数回に抑えているつもりですけど、もう少し多いかもしれないですね」と話す。それをそのまま祐希に伝えた。爆笑された。「もっとしてますよ。俺からもたまに連絡しますけど、少なくても2週に1回、多い時は週1、2回連絡が来ますね」。やっぱり、Twitterで見た愛情たっぷりのお母さんだ。話すうちに心の声も漏れてきた。「これ言って祐希に怒られないかな……」。ゆかりさんは元気がないわけではなく、失言しまいと慎重にしゃべっているのだ。

小学3年生の時に訪れた人生の転機

小林祐希は年中から小学6年生までJACPA東京FCに在籍 【写真提供:小林選手ご家族】

 祐希はJACPA東京FCで頭角を現し、中学校入学と同時に育成の名門である東京ヴェルディ1969ジュニアユースへとステップアップを遂げる。東京ヴェルディとFC東京の両クラブから声がかかり、当時ヴェルディに所属し中学3年生でプロデビューを果たした森本貴幸(現・アビスパ福岡/元日本代表)からも誘われたのは有名な話だ。母親は電車で通うことになるヴェルディよりも、自転車で通えるFC東京に行くと見ていたが、息子は緑のユニホームに袖を通すことを選んだ。

「一番の理由は、菅澤大我(現・ちふれASエルフェン埼玉監督)さんが監督だったことですね。大我さんがFC東京にいたら俺もたぶんFC東京に行っていました。だから俺が入って1年でいなくなったことは今でも根に持っています」と笑う。また、ヴェルディに入る選手たちは良くも悪くも我が強く、そこにも惹かれた。小学6年生の時にヴェルディジュニアの選手たちと、祐希を含む外から来た選手たちがセレクションを兼ねて練習する機会がたびたびあった。「試合をする時、俺らは寄せ集めだからポジションが決まっていなくて、トップ下をやりたいって言うやつが5人ぐらいいて誰も譲らないんですよ。その雰囲気が自分には合っているなと」

 サッカー面では順調だったが、祐希は小学3年生の時に転機を迎えていた。両親が離婚し、母と2つ下の妹ゆりあさん、4つ下の妹みらのさんと4人で暮らすことになったのだ。長男は「母親と一緒だと甘えちゃうから」、自分に厳しく人にも厳しい父親についていくことも考えたが、結局はリスペクトする実父と違う道を歩むことになった。

 専業主婦だったゆかりさんは3人の子どもを育てるために、資格を取って看護師として働くようになった。「雇ってくれるところもたくさんあるし、給与面でも恵まれていたし、子どもたちが安心して高校、大学に通えると思って」

 両親の離婚によって、祐希がまず考えたのは「妹にどう説明するか」だった。小学校3年生だった自分は状況を把握できていたが、妹2人は父親がどうして帰ってこないのか理解できていなかった。悲しさやさみしさは二の次だった。母親が働きに出たことで、2人の妹の面倒を見る時間も増えた。

 ゆかりさんは振り返る。「妹には本当に優しいんですよ。年々甘くなってますね」とにこやかに話す。「ケンカはほとんどしなかったです。妹たちも慕っていますし、私もどちらかと言うと指示されていて、自宅でもあの頃から司令塔でしたよ」。そうした性格はいつできあがったのか。「一番下の子が1歳の時、祐希が5歳の時にはもう妹をお風呂に入れたりしていました。小さい時からしっかりしていて、よく妹の面倒を見てくれました」

 祐希の回想は少し違っていた。「母親ともそうですけど、妹たちともめちゃくちゃケンカしてましたよ」。苦笑いで続ける。「おやじ代わりになろうと必死だったけど、俺が母親の言うことを聞かないから、妹たちも俺の言うことを聞かなくて」。そんな中でも、2つ下の妹、ゆりあさんは頼りになった。「めちゃくちゃしっかりしていて、小学校1、2年で目玉焼きとかウインナーとか焼いたり、ご飯を炊いたり、よく食事の用意をしてくれましたから。むしろ俺が妹に面倒を見てもらっていました」

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