連載:キズナ〜選手と大切な人との物語〜

17歳でプロデビュー、19歳で東京V主将に 小林祐希の自立心が大きく育まれた幼少期

母も息子も感謝する父親のサポート

【兼子愼一郎】

(上)ゆかりさんは失言しまいと、最初は険しい表情だったが……(下)徐々に警戒心を解き、身振り手振りを交えて話してくれた 【兼子愼一郎】

 こうした中で、祐希の自立心は一層育まれた。もともと両親は息子のやりたいようにやらせてきた。「何でも好きなだけやらせていました。小さい時から遊びでも虫取りでも、本人の気が済むまでずっとやらせていました」(ゆかりさん)。どの幼稚園に行くかを決める時も、いくつもの施設を回り本人の気に入ったところに通わせた。JACPA東京FCでサッカーを習い始めてからは、幼稚園で14時か15時から17時まで練習、その後21時ぐらいまで、ひたすらリフティングを続ける息子を見守っていた。「親からあれしろ、これしろって言われたことは一度もなく、俺の好きなようにやらせてくれた」(祐希)。その育児方針によって祐希の自立心は醸成され、両親の別離という不慮の出来事によって加速度的に高まった。

 小6の時に東京ヴェルディを選んだのも、高校に都立高を選んだのも、その都立高を1カ月で辞め、通信制の高校に編入したのも、母親へはすべて事後報告だった。早い段階で精神的に成熟し、現在サッカー選手とビジネスマンを両立しているのも、こうした経緯があったからだろう。

 大きなトラブルもなく、子どもたちが成長期を過ごせたのは、父親のサポートもあったからだ。ゆかりさんはこう話す。「パパには、家族と離れてからも、子育てのパートナーとしてずっと協力してもらっています。私と祐希が言い合いになって収拾がつかない時などは間に入ってもらったりして。反抗期の時なんかは私の言うことを全く聞かなくて、そういう時期もうまく介入してもらいました」。含み笑いをして続ける。「まあ、祐希は生まれた時から反抗期でしたから。大変だった記憶もありますけど、だから今の祐希を見ると大人になったなと思いますね」

 祐希も父親への感謝を口にする。「礼儀を大切にする、義理人情に厚い人」で、自身の人格形成にも多大な影響を受けたという。「箸の持ち方一つですごく怒るような厳しい父親ですけど、例えば俺がリフティングに打ちこんでいる時、俺に何か言うにはまず自分がって、朝6時に起きてリフティングの練習をするんですよ。そういう姿を見せているから、子どもに尊敬されるんですよね。その厳しい父親と、アメをくれる母親で、すごくバランスが良かった」

 一般的に、一人親の家庭は経済面で苦労することが多い。小林家はどうだったのか。「苦労しましたよ。でも、食べるものがあれば何とかなりますから。田舎からジャガイモとか、カボチャとか、ほうれん草とかを送ってもらってましたね」(ゆかりさん)。祐希も両親のサポートを実感していた。「母親が日々の生活を支えてくれて、おやじも、俺が海外遠征に行く時など莫大(ばくだい)なお金がかかる時にポンと出してくれました」

急降下した中学生時代、そこから再浮上した高校時代

高校3年生の時に東京ヴェルディユースの一員としてクラブユース選手権を制覇、自身は決勝で2得点を挙げMVPを獲得した 【写真提供:株式会社こもれび】

ユースでは10番を背負い、天皇杯(写真)にも出場した 【兼子愼一郎】

 ヴェルディのジュニアユース時代は「めちゃくちゃつらかった」。中学1年生の時に10番を与えられレギュラーに定着したが、2年生になって背番号10をはく奪され、トップ下から左サイドバックにコンバートされた。チームメートにどんどん差をつけられ、3年生の最後までスタメンに返り咲くことはなかった。なぜそうなったか、自分にも思い当たる節はある。「とにかく生意気でしたね。仲間への口の利き方が良くないし、走らないし、プライドが高いし、キレるし。そんな自分を育ててくれたヴェルディには、すごく感謝しています」。もっとも、生意気だったのは私生活の影響が少なからずあったという。「家ではおやじの代わりをやらなきゃという思いがあって、そのストレスを外で発散していたところはあった」

 それでも、中学2年生の夏、サッカーに対する姿勢を変える出来事があった。レギュラー組がNIKE PREMIER CUP2006出場のためイギリスに飛んだ中、居残り組の祐希は3年生のメンバーと一緒にブラジルに遠征した。「2週間ぐらいだったけど、衝撃を受けて帰ってきた。自分にはハングリーさが足りなかったなと」。心の成長に合わせて、体も成長した。「それまですごく小さかったけど、3年生になってからぐんぐん周りを抜いて。それからプレーも良くなってきて、トップチームの練習にも呼んでもらえるようになった」。3年生になって心身ともに成熟した祐希への、周囲の見る目も変わった。ジュニアユースではレギュラーになれなかったものの、ユース昇格を勝ち取り、左サイドバックとしてU-15日本代表にも招集された。

 ユース加入後は午前と午後にトップチームの練習に加わり、終了後にユースの練習に参加した。サッカー漬けの毎日で多忙を極めた。都立の高校に進学したものの、通う時間がなく、入学して1カ月でクラブが提携している通信制の高校に編入した。「学校辞めるから」と告げられた母は、編入することよりも、すぐさま行き先を決めた手際の良さに驚いた。「『えーーー!』とは思いましたけど、それまでも祐希がすべて決めていましたから、その時も『もう決めたの?』ってそこだけでしたね」

 祐希に高校時代の話を振ると、表情を崩して振り返ってくれた。「高校3年生の時はすごく楽しかったですね。もう10年前の話ですけど、今でも鮮明に覚えています」。ユースでは攻守両面に関わることを期待され、ボランチでの起用が増えた。ハイライトは高校3年生時のクラブユース選手権だ。チームは5年ぶり13回目の優勝を飾り、祐希は柏レイソルU-18との決勝で、延長戦での決勝点を含む2ゴールを決めて大会MVPを受賞した。

 この時すでに祐希は2種登録選手として、トップチームで公式戦初出場を果たしている。クラブユース選手権の半年近く前、2010年3月21日のJ2リーグ、ギラヴァンツ北九州戦でデビューを飾り、このシーズンは計4試合に出場した。ユースカテゴリーでの活躍もあり、同年代ではピカイチの存在として将来を有望視されていた。

 急降下した中学生時代、そこから再浮上して日本一の称号を手にした高校時代、母親はどう見ていたのか。「スランプもあったと思いますし、伸び悩んでいるなと感じる時期もありました」。でも、人生の先輩として「一歩引いて見ていた」。なぜか。「小さい時にスランプになった時があって、そこを自分の力で抜けだした時にバーンって伸びたんですよ。私はサッカーのことを知らないし、余計なことを言うよりも見守っていた方がいいのかなって」。自立心の強い息子にマッチした方法だったのだろう。

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