相馬勇紀、「超過保護」な母との絆 時に疎ましく感じた少年時代
前編・キャリアの好転につながった温かい後押し
名古屋グランパスの相馬勇紀と母親の靖子さん 【写真提供:相馬選手ご家族】
いつもは、ああしなさい、こうしなさいとげきを飛ばす母親の靖子さんも、この時だけは優しくこう語りかけた。「またがんばろうよ」。傷心の息子を穏やかに励ました。これが勇紀の胸に響いた。
やる気を回復させた勇紀は、従来のパフォーマンスを取り戻し、さらにトレーニングを重ねて右肩上がりの成長を見せた。骨格ができあがってからと敬遠していた筋トレに取り組み、当たり負けしない体を作って持ち前の突破力にさらに磨きをかけた。「高2ぐらいで身長(の伸び)が止まってきて。その頃から筋トレを始めて、自分の体やプレースタイルができあがった。あの時が自分の分岐点だった」
直後の国体(第68回国民体育大会)で東京都のメンバーに選出され、背番号9を背負って優勝に貢献。その後湘南ベルマーレの練習に呼ばれ、3年次には第38回日本クラブユースサッカー選手権で頂点に立つなど、上昇気流に乗った。
勇紀はキャリアの好転につながったこの時の温かい後押しが、母親との一番の思い出として心に残っている。
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ともに負けず嫌いな母親と息子
三菱養和SCユースに在籍していた高3の時には、Jクラブの育成組織も参加するクラブユース選手権で日本一に輝いた 【写真提供:相馬選手ご家族】
勇紀の学生時代を知る人の多くは、同時に靖子さんのことも知っている。スタンドから息子に声援を、時に力のこもった怒声を送り、周りの注目を集めてしまっていたようだ。靖子さんは「子どもの試合を見に行くと、中には大きな声で応援されるお母さんがいるんですよ。そういう方に比べたら地味でしたね」と言うが……その方にも劣らず目立っていたことは想像に難くない。
また、母親は試合後、息子へ熱烈なアドバイスを送っていた。勇紀自身は「小中学生の頃は正直嫌な時もあって、『来ないで』って言う時もあったけど、そんなの無視して来るから」と苦笑いを浮かべる。
靖子さんは学生時代、全国有数のテニスプレーヤーだった。しかし、国内トップ3に入る選手と対戦して力量差を感じ、また当時は日本でテニスがそこまで盛んでなかったことから大学で現役を引退して就職した。それでも競争を勝ち抜いた経験があり、同じアスリートとして育った勇紀を見ていて感じるものがある。
だから良かれと思って口を出す。「勇紀は間に合わないと思うとすぐに諦める。でも私は、何が起こるかわからないから最後までボールを追いかけなさいと」。そしてエスカレートして、静かに聞いていた息子から「サッカーの素人なのにうるさいな」と返される。すると母親は「スポーツっていうものは……」とかぶせる。どちらも負けず嫌いだからそのうち激しい口論になる。お互いが泣くまで激論を交わすこともあった。
父親の安紀さんは勇紀をよく褒め、靖子さんは褒めるばかりでは、とバランスを取って厳しい言葉を投げかけてきた。「みんなが褒めると心に隙ができるから。私が食い止めようと」とは母親の言い分だ。もっとも、息子への思いがあったとはいえ、靖子さんは性格的に思ったことは口に出さないと気が済まないタイプのようだ。
物腰が柔らかくおっとりして見える勇紀は、どんな子どもだったのか。靖子さんは少し考えて「うーん、一言で言うと、いい子」とほほ笑む。「私と主人がよく激しいケンカをしていて、こうなりたくないと思ったんでしょうね。親を反面教師に優しい子に育ちました」。勇紀に聞くと、こう返答があった。「そのとおりですね。ホントにすごいケンカで、僕が仲裁に入っていましたから。自分で反面教師と考えたことはないですけど、親を見て自然とこういう性格になりました」
反抗期もなかった。靖子さんは「私があまりにも強すぎるから」と笑う。親が知っている限り、家族以外の人とケンカをしたのは数えるぐらいで、それも周りから耐えがたい侮辱を受けたことがきっかけだった。靖子さんは息子の性格をこうも表現した。「マイペースで、いい意味で鈍い。友達からバカにされても、気づかないんですよ。それと、今思えば小泉(純一郎)元首相が言っていた“鈍感力”もあるのかなと。小さなことを気にしないでポジティブに、マイペースで成長しました」。勇紀も肯定的な性格を自認する。「基本的にポジティブでナーバスになることはないですね」