連載:新庄剛志「もう一度、プロ野球選手になる。」

新庄剛志、ぼくの師匠とよき理解者 島野さんから学んだ「努力は見せない」

新庄剛志
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第2回

新庄さんが敬遠球を打ってサヨナラ安打にしたのは、今でも多くの野球ファンの記憶に刻まれている 【写真は共同】

 ぼくには尊敬するコーチがふたりいる。柏原純一さんと島野育夫さんだ。

 柏原さんはぼくが阪神に入団したとき、阪神で二軍監督を務めていた。
 ぼくの才能を買ってくれて、二軍でいつも四番を打たせてくれた。調子が悪くても、四番はほとんどいつもぼくだった。
 入団2年目の1991年の秋、「これからは柏原さんについていこう」と思わされる出来事が起きた。

 柏原さんのもとに、一軍の中村勝広監督から「新庄を上げてくれ」というリクエストが入った。
 大チャンス到来! しかしこのとき柏原さんは、あろうことか「新庄は上げません!」と突っぱね、中村監督とケンカまでしたらしい。

「いま一軍に上げたら、あいつは潰れる。二軍でもう3カ月、プロのピッチャーの球に慣れさせて、来年の開幕からセンターで使ってくれ」

 そう言って、反対したというのだ。
 この人は、こんなにぼくのことを思ってくれてるんだ──。
 この日から、柏原さんをものすごくリスペクトするようになった。

 実際は、柏原さんの反対にもかかわらず、ぼくは一軍に昇格。
 デビュー戦の初打席でいきなりタイムリーを放った。東京ドームの巨人戦で、だよ。
 それを聞いた柏原さんの喜びようはなかったね。
「新庄は俺が育てた!」なんて大はしゃぎしている。もちろん、冗談半分で。
 そんな子どものようなところも大好きになった。

 プロ野球界に入りたての若手選手は、まわりのみんながすごく見えてしまう。
 いろんなコーチの言うことを聞き、先輩たちのマネをするうちに、自分を見失ってしまう若手はよくいるものだ。
 ぼくは、そうならなかった。
 そのときどきで信じられる人がひとりいればいいと思っていたからだ。プロ入りするまでは、親父がそんな存在だった。
 一軍に昇格した後も、柏原さんを師匠と仰ぎ、ほかの誰よりも真っ先にアドバイスを聞きにいった。それからというもの、柏原さんとの二人三脚が始まった。
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著者プロフィール

1972年生まれ。福岡県出身。1990年、阪神タイガース入団。1999年の巨人戦で敬遠球を打ったことは大きな話題となる。2001年、米大リーグ球団メッツに移籍し、日本人選手で初めて投手以外の野手として登録。2002年に移籍したジャイアンツでは、日本人選手で初めてのワールドシリーズ出場を果たす。2004年、日本球界に復帰し、北海道日本ハムファイターズに入団。試合前のパフォーマンスが「新庄劇場」と呼ばれ、北海道に移転直後の日本ハム人気を盛り上げる。2006年、シリーズ開幕直後に引退宣言。日本ハムを日本シリーズ優勝に導いた。2019年11月、プロ野球選手として現役復帰を目指すことを宣言する。著書に『わいたこら。』(学研プラス)など。

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