伝説のペールワン戦で猪木が見た光景 酷評のアリ戦が報われたパキスタン遠征
デビュー60周年の節目に過去の試合を、時には笑顔を見せ、時には険しい顔で振り返った 【撮影:菊田義久】
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「殺し合い」のような試合になっちゃった
モハメド・アリ戦(1976年6月26日)があって、俺は普段、自分の試合の記事をあまり読まないんだけど「茶番劇だ。世紀の凡戦だ」とボロクソに書かれましたよ。それが今では、大変な評価をされているんだけど(苦笑)。
――はい。「総合格闘技のルーツ」としてリスペクトされていますし、ボクシングの現役世界チャンピオンにしてカリスマのアリと闘った偉業は誰も超えられません。
そのアリ戦のあと、招待を受けたのがパキスタンだったんですよ。北京経由で行ったんだけど、飛行機が遅れちゃって、夜中にイスラマバードに着いたら空港がものすごい人だかりで。「なんだよ、これは?」と聞いたら「みんな、あなたを見に来てるんですよ」って。
――おお!
飛行機を降りたらレイをいっぱい掛けられて、そこから乗り継いでカラチに移動したら、また空港の塀のところにすごい人だかりで。「あれは?」と聞くと「みんながあなたを見に来ているんです」と。結局、最初にアリ戦を評価してくれたのがパキスタンで、その国民的英雄のアクラム・ペールワンが挑戦してきた、と。だから、そんな感じで迎えてもらった時に「アリとの試合をやった価値があった」と確信したんですよ。
パキスタンに降り立つと、たくさんのファンが出迎えていた 【写真提供:ライトハウス】
試合の時は10万人だったかな、クリケット場に人がいっぱい集まって。まあ「殺し合い」のような試合になっちゃったんだけど、それはあとで説明しますけど。
――はい、ぜひお願いします。
その後も、1984年に今度は新日本プロレスのツアーでイスラマバード、カラチ、ペシャワール、全部回ったんですけどね。あの時は長州(力)も一緒にいたのかな。ハク(ムハンマド・ジア=ウル=ハク)大統領から勲章をもらって。そんなつながりがあって、それからしばらく間が空いて、俺も現役を終えてから行ったんだけど、パキスタンへ行くたびに「猪木が来た」と騒がれて何万人という人が集まってね。
――すごいですね。
アクラムとかペールワン一族もみんな亡くなってしまって、お墓に案内されたんだけど向こうは土葬でね。俺が行くと何万人と集まってしまうんで「お墓にこんなに人が来ていいのか」と。兵学校に行ったら何千人の生徒に敬礼で迎えられたり、いろんなところに案内されて、たいへんな歓迎を受けたんですよ。
――日本から英雄が来たら騒ぎますよね。
カイバル峠に行った時は(アナウンサーの)古舘伊知郎が一緒だったのかな。そこはゲリラがいて一番危険なところで「行くなんてとんでもない」と止められたんだけど、最後に大統領の許可が出て。その時は前後を装甲車にガードされながら行きましたね。
――大変な状況でしたね。
いろんな歴史があって、その中でパキスタンというのは思い出が強くてですね。本当は、こんな状況(※新型コロナウイルスにより渡航禁止)にならなければパキスタンを訪問しようと思っていたんですよ。一つには、ペシャワールの難民キャンプがあって、そこで井戸も掘ったことがあって。難民が一番欲しいのは井戸なんですね。そういう経緯もあって「俺がペシャワールで興行をやる」と言ったら、それまで大使館とかいろんなところが後援についてくれたんだけど「ペシャワールでやるなら危険すぎるのでやめます」と降りてしまってね。
――それほど危険な場所だったんですね。
我々が行く1週間前にはペシャワールの有名なホテルに爆弾を積んだトラックが突っ込んだり。そんなことがあったんだけど、見事に、俺らが行った時には何も起こらなくて、静かに興行ができたんだけど。どうも私にピストルで武装したゲリラがずっと付いてきていたらしいけど、これが幸い「猪木のファンだった」というんだよ(笑)。
――ええええ。
スッと近づいてきて「一緒に写真を撮ってくれ」と言われて、後で「あの格好はアルカイダだったのか」と気づいてね(笑)。そんなこともあって、パキスタンにはいい印象しかなくて大好きなのと、今の首相はイムラン・カーンといって、クリケットのかつての大英雄なんですよ。日本のプロ野球でいうところの「王(貞治)、長嶋(茂雄)」のような存在でね。
――そうなんですね。
私が国会議員をやっていた時、彼がわざわざ日本を訪ねてくれて、その時に「いずれ政界に出ます」と言っていて。彼からは招待状も来ているんだけど、私も去年、入院したり。やっと元気になってきたんで、いずれコロナが収まれば、またパキスタンに行きたいなと思っているんです。