連載:生涯現役という生き方

武藤敬司が磨き上げたオリジナリティ 日本では米国流を、米国では日本流を

武藤敬司
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第3回

アメリカでは日本で培ったものを、日本ではアメリカのレシピを生かして個性を作り上げ、唯一無二のプロレスラーとして日米マットで存在感を発揮する武藤 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】

 プロレスというのは勝敗論を越えたもの。互いの持ち味を競いあうものだ。
 試合の勝敗はもちろん大事だけど、それはたとえば落語の「さげ」くらいに考えていいんじゃないかな。「さげ」がないと噺(はなし)が終わらない。そしてまた別の日には別の噺が始まっていく。プロレスのカウント1・2・3もそれと同じようなもの。
 だからこそ、自分の商売道具でもある個性を磨いていくことは大事になってくる。自分だけの型が決まっていけば、レスラーは長期間活躍することができる。
 俺の場合、アメリカでは日本で培ったものを、反対に日本ではアメリカのレシピを生かして個性を作り上げていった。

人のできないことをやるのが鉄則

 1980年代のアメリカは筋肉オバケみたいな選手がトップだった。
 力を生かして試合を進めていく。きめの細かいレスリングなんてできない。
 俺は新日本プロレスの道場で鍛え上げたレスリングのテクニックがあったから、それがすごく役に立った。細かな関節技とか彼らは知らない。俺は柔道の頃から絞め技の稽古も嫌いじゃなかったし、新日本のサブミッションも会得してた。なおかつ、それをより大胆に、より大きくアピールすることもできた。つまり選手同士にしか分からない寝技の腕試しじゃなくて、観客に分かるようにグラウンド技を伝えることができた。アメリカのレスラーからジムでの筋力アップのトレーニング法を教えてもらう代わりに、俺がグラウンドのテクニックを教えてあげたこともあった。

 当時の俺の身長は188センチ。日本では大きい方だけど、むこうではまあまあぐらいで、小さくないぐらいのサイズ感。
 でも、それぐらいの身長のある人間でムーンサルトを打てる奴なんてアメリカにいなかったから驚かれた。ムーンサルトはむこうで大受けだった。
 アメリカであの技をポピュラーにしたのは、おそらく俺なんじゃないかな。
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著者プロフィール

1962年生まれ。山梨県富士吉田市出身。山梨県立富士河口湖高等学校卒業。高校卒業後は、東北柔道専門学校(現・学校法人東北柔専仙台接骨医療専門学校)に進学。柔道整復師の資格を取得するとともに、柔道で全日本ジュニア体重別選手権大会95kg以下級3位となる。21歳で新日本プロレス入門、1995年、第17代IWGPヘビー級王者となる。2002年、全日本プロレス入団、同年10月には社長に就任。2013年同団体を退団し、WRESTLE‐1を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役社長となる(2020年4月、WRESTLE‐1は活動休止)。

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