“メルカリ会長”に聞くアントラーズ改革 Jリーグ新時代 令和の社長像 鹿島編

宇都宮徹壱

アントラーズファンだった中学生が両鈴木と出会うまで

小泉社長が鹿島と出会ったのは中学1年の時。96年のリーグ制覇もよく覚えているという 【宇都宮徹壱】

「初めて鹿島アントラーズの試合を見たのは、Jリーグ開幕直前のペプシカップでしたね。確かゴールデンウィークの頃で、相手はブラジルのフルミネンセでした」

 昨年8月に鹿島アントラーズの社長に就任した小泉文明は、クラブとのファーストコンタクトのことをよく覚えていた。1993年5月4日に行われたペプシカップは、カシマサッカースタジアムのこけら落としのゲームで、ジーコがファーストゴールを挙げている。この時、小泉は中学1年生の13歳。当時は山梨に暮らしていたが、茨城県行方市出身(当時麻生町)の父親に連れられて、すぐさま父子は鹿島ファンになった。同じ年、小泉少年はのちの人生に大きな影響を及ぼすことになる、もうひとつの「出会い」を経験する。
「初めてパソコンに触ったのも、僕が中1の時でしたね。中高一貫校に通っていて、理系の教育が盛んだったので、中1の時からグラフィックをやったり、中3の頃には簡単なゲームを作ったりしていました。大学に入ると、裏原宿系のファッションをネットで売っていました。当時から、メルカリみたいなことをやっていたわけですね(笑)」

 新卒で就職したのは、証券会社の投資銀行部門。将来的に事業をやりたいと考えていた小泉は「そのためにはお金の勉強をしなければ」と感じていたそうだ。そこでクライアントとして出会ったミクシィに、2006年に転職。さらに13年には、設立されたばかりのメルカリにジョインする。今は社員約1800人を誇るメルカリも、この時はまだ10人くらい。ビジネスサイドでは2番目の社員となった小泉は、翌14年に取締役、17年に取締役社長兼COOとなる。鹿島とパートナー契約を結んだのも、この年のことだ。

「僕がインターネットのどこに魅力を感じるかというと、個人がエンパワーメントされることなんですよね。ミクシィでは情報発信で、メルカリでは売買で、それぞれ個人がエンパワーされていく。ただし、サービスを作るだけでは駄目で、何千万人というユーザーに使われて初めて社会にインパクトのあるサービスになると思っています。そのためには、日本だけでなくグローバルを意識しないといけない。そう考えていた時、クラブワールドカップ(W杯)決勝でレアル・マドリーと対戦する、アントラーズと再会したんです」

メルカリが鹿島の買収を決断した3つの理由

メリカリの小泉社長が鹿島と再会するきっかけを作ったのは、当時所属していた柴崎岳だった 【宇都宮徹壱】

 IT企業の取締役となった小泉と、国内最多タイトル数を誇る鹿島。両者を引き合わせたのは、16年のクラブW杯決勝でレアル相手に2ゴールを挙げた柴崎岳であった。その柴崎がスペインに渡った17年、メルカリは鹿島のパートナー企業となり、さらに2年後の19年には株式の譲渡を受け世間をあっと言わせる。ここで気になるのが、IT企業がプロサッカークラブの経営権を取得するにあたり、小泉はどのような説明をしたのかということだ。

「経営権取得の理由について、僕からは3点説明しました。まず、メルカリのユーザーとアントラーズのファンは世代的に重ならないこと。メルカリは20代から30代前半の女性が中心なのに対し、アントラーズのファンは30代後半から40代以上の男性が多い。ですから、お互いに補完できるということですね。次にアントラーズという名門クラブを持つことで、メルカリのブランド価値が高まること。メルペイのような金融サービスを始めるので、信用力の向上は重要でした。それからビジネス的な観点ですね」

 小泉が挙げた3番目の理由については、さらに2つの側面がある。すなわち「スポーツを含めたエンターテインメント」と「街づくり」。小泉の言葉を借りると「どちらもテクノロジーとの相性がいい」という。それぞれに対する小泉のアイデアは、非常に興味深い内容なのだが、情報量が膨大なので涙をのんで割愛する。では、経営権取得の際のハードルは何だったのか? 実は「そんなに高いハードルではなかった」そうだ。

「われわれがスポンサーをさせていただいた2年間は、いわゆる『お見合い期間』だったわけです。その間に『このクラブをもっとこうしたいね』とか『こういうところにビジネスチャンスがあるよね』といった意見交換を、マンさんやヒデキさんと続けてきたわけです。それにわれわれは『再生案件』でクラブを買収したわけではありません。これまで積み上げてきたアントラーズの伝統を大切にしつつ、『テクノロジーを使えばこんなことができるのではないか』というところでサポートしていく感じなんですよ」

 もちろん、それは理解できる。とはいえ、小泉は1980年の生まれ。「マンさん」こと鈴木満が住金に入社した年である(余談ながら小泉が初めて観戦したペプシカップでは、満はコーチとしてベンチに入っていた)。世代的にも業界的にもまったく異なる、小泉と両鈴木。前者については、名門クラブの伝統を築き上げてきた先達へのリスペクトはあるだろう。では後者は、未知なるIT企業経営者をどう受け入れたのだろうか。ここで、マーケティングダイレクターの「ヒデキさん」こと鈴木秀樹の話を聞くことにしよう。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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