「変わりゆくミラノの景色」 ミラネーゼの目に映るホンダとナガトモ
イタリアでは当時、本田圭佑と長友佑都のふたりがプレーしていた 【写真:なかしまだいすけ/アフロ】
朝焼けのミラノの空を旋回した飛行機は、ゆっくりとマルペンサ空港へと降下していく。客室乗務員のアナウンスに乗客がざわついた。
「ミラノは快晴、気温は氷点下10度」
アルプスから降りてくる冷気に包まれた極寒のミラノで、長友佑都と本田圭佑は日々ボールを蹴っている。
マルペンサ空港からの列車がミラノ中央駅のくすんだアーチをくぐる頃、街はすでに目を覚まそうとしていた。
通勤客に学生。その目はスマートフォンやタブレットに釘づけになっている。列車の中の光景はかわった。かつて彼らの手には新聞や本があった。やがてそれは携帯電話になり、怒涛のようにスマートフォンの時代が押し寄せてきた。
ピンク色のスポーツ新聞ガゼッタ・デッロ・スポルトを手に持つ中年男性が、逆に珍しく見えた。
ガゼッタ紙の一面には、前夜のコッパ・イタリア、ナポリ対インテルの結果が掲載されていた。インテルのゴールを祝うチームメイトの中に、満面の笑みを浮かべる長友が写っている。鮮やかな紙面に、鮮やかな笑顔が映えていた。
この街に住んでいたのは15年前のことだ。当時は中田英寿がローマでプレーしていて、通りを歩くと決まって「ナカータ!」と声をかけられた。ドゥオモ広場で、中央駅で、地下鉄の中で。出張中のビジネスマンも、卒業旅行の女子大生も、サッカーライターを目指す貧乏学生も、日本人であれば誰もがナカータだった。多くのイタリア人にとって、それが唯一知っている日本人の名前だった(それ以外で知られていたのはキャプテン翼くらいだ)。彼らは親しみを込めて僕らをナカータと呼んだ。日本サッカーがまだまだ世界に知られていない、そんな時代だった。
毎週末、人で埋まったサン・シーロに足を運んだ。イタリアサッカーは世界の頂点にいて、インテルとミランはスター選手で彩られていた。しかし今のサン・シーロは半分も埋まらず、チームも国内外で低迷している。スタジアムに行かずにテレビで観戦するファンが増えた。イタリアを襲う経済危機は、娯楽に費やす余裕を人々から奪い去った。かつて年間パスを買い、毎試合スタジアムに駆けつけた熱心なファンも例外ではない。夕暮れの公園から子どもたちがひとりひとり帰っていくみたいに、スタンドからは少しずつ人が消えていった。
ミラノ郊外にあるガゼッタ紙の編集部で、ミラン担当記者のマルコがつぶやいた。同編集部は1年ほど前まではミラノの中心にあったが、退散するように郊外のオフィスへと出ていった。
「当時はサッカーといえばイタリアだった。僕らは欧州サッカー界の主役だった。記者もみんな誇りを持って仕事に挑んでいた。2002年のチャンピオンズリーグ決勝はミラン対ユベントスっていう、イタリア勢同士でね。それが今じゃCLにすら出ていない。静かに、凋落したセリエAのタイトルを争うだけさ」
ミラノでは日本人ふたりがプレーしている。日本ではイタリアの辛口批評に気を悪くする人もいると言うと、彼は肩をすくめて言った。
「うちの新聞でも本田には大批判を展開していた。かわいそうでもある。本田はスピードがあるわけでもないし、点取り屋でもない。それにもかかわらず、ゴールという数字を求めるんだから。でも、活躍したら評価はする。しなければ批判する。どの時代も、ずっとそうやってきたんだ」
午後の編集部を歩いた。先週、広告が集まらずに閉鎖が決まったガゼッタTVの部員が、からっぽのスタジオの椅子に座り、暇そうにあくびをしていた。