連載:プロ野球 あの人はいま

井川キラーとして名を馳せた福井敬治 元気と大きな声で戦い続けたプロ生活

前田恵

意外性あるバッティングと明るいキャラでファンから愛された福井敬治(写真右)。豪華メンバーを擁する当時の巨人で、一軍で戦い続けることができた理由とは? 【写真は共同】

 巨人時代はベンチの元気印兼守備の名手として、ファンの記憶に残る福井敬治。広島時代は『赤ゴリラ』と呼ばれ、自己最高の打撃成績を残した。NPBで12年の現役生活を終えてからは、社会人野球の茨城ゴールデンゴールズでコーチ兼選手。43歳になる今もなお、少年野球の指導者としてグラウンドで誰よりも大きく、元気な声を響かせている。前編では福井のNPB時代を振り返る。

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予想していなかった巨人からの指名

“その人”の目はダイヤモンドのように輝き、全身はまばゆいほどのオーラを放っていた。子どものころから大ファンだった巨人軍が、まさかのドラフト3位指名。入団発表の席で初めて長嶋茂雄監督の姿を見たとき、福井は「とんでもないチームに入ってしまったな」と思った。これはもう、必死にやるしかない。会見で抱負を聞かれ、「将来は10億、20億稼ぐ選手になります」と答えた。そのくらいの意気込みで自主トレ、キャンプに臨むつもりだった。

「ところが、キャンプでいきなり衝撃を受けました。原(辰徳)さん、落合(博満)さん……。あの時代です。“新人の福井です”とあいさつしているだけなのに、強烈なオーラを感じる(笑)。僕は大概のことでは動じないんですが、あのときばかりは結構動揺しましたね」

 1年目は木製バットへの対応に四苦八苦。なかなか芯で捉えることができず、4本連続してバットを折った日もあった。「一体何本折ったら気が済むんだ」とコーチにからかわれた。ようやく木製バットに慣れ始めると、今度はケガに悩まされた。

一軍ベンチで野球が見られるだけでも幸せ

現役時代は、ひたすら川相昌弘さんのマネをして守備がうまくなったという 【撮影:スリーライト】

 トンネルを抜けるための武器は、守備だった。

「打つほうも好きだったけども、守備はもっと大好きだったから、どんどんうまくなりました。二軍でお世話になったのは河埜和正コーチです。試合の日も5回まではずっとサブグランドで壁当てとノック。基礎から叩き込まれました。そうして一軍に行ったときは、川相(昌弘)さんの守備を見ながら、ずっとマネをしていましたね。ボールへの入り方、捕ってからの足のステップ、送球……。マネをするのが、うまくなるための一番の近道だった。一軍ではバッティングより常に守備のことしか頭になかったです」

 長嶋監督が最後に指揮を執った2001年に守備で出場機会を増やし、原監督誕生の02年には阪神・井川慶から甲子園で決勝ホームラン。この年、井川から2本塁打し、『井川キラー』と呼ばれた。東京ドームではヤクルトの“ロケットボーイ”石井弘寿から、サヨナラホームランを打った。

 原監督が福井を買っていたのは、何よりその元気の良さだった。あるとき、福井は原監督にこう言われた。

「お前の元気と声が、ベンチには必要なんだ」

 そこに安定した守備が加われば、指揮官としてもベンチに置いておきたくなるというものだ。

「(守備要員でも)最高ですよ。だってベンチの一番いいところで、野球を見られましたもん。試合に出られなくても、自分のためになることはたくさんあります。松井(秀喜)さん、高橋(由伸)さん、二岡(智宏)君、仁志(敏久)さん、清水(隆行)さん、江藤(智)さん、清原(和博)さん……。そんなメンバーですよ。その人たちをベンチで見ているだけでも勉強になるんです。それで勝っている試合の最後、守備固めで出ることができたんですから、楽しかったですよ」

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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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