井川キラーとして名を馳せた福井敬治 元気と大きな声で戦い続けたプロ生活
今でも自慢している日本一の経験
02年には安定した守備力で、貴重なユーティリティとしてチームに貢献。日本一の美酒も味わった 【写真は共同】
「首位打者とかホームラン王とか、タイトルを獲った選手はたくさんいたけれども、リーグ優勝して日本一になった選手は、そんなにいないと思うんです。だから、そこは自慢できます。自慢させてください(笑)」
03年も貴重なユーティリティとして出場機会をつくり、意気揚々と迎えた04年のキャンプ。そこで死球を受け骨折、一軍を離脱した。ちょうど堀内(恒夫)監督に代わった1年目。出場機会をどんどん失った。
そのオフ、戦力外通告。ルーキー時代、バッティングを鍛えてもらった恩師・内田順三コーチに「クビになりました」と報告した。当時、内田は広島の打撃コーチ。おりしも広島では代打の切り札・町田公二郎が阪神へ移籍し、右の代打が不足していた。トライアウトでホームランを放ち力を見せた福井は、すぐ広島に呼ばれた。
「巨人に恩返しをしたいと思いました。お世話になった球団なので、自分の元気な姿を見せたいと思ってプレーしました。広島では一度もケガなく、一軍にいることができました」
広島に移籍して迎えた開幕カードは、東京ドームの巨人戦。2回戦ではスタメンで出場し、エース・内海(哲也=現・埼玉西武)から初ヒットを打った。巨人戦にはとにかく燃えたし、よく打った。嶋重宣のニックネーム『赤ゴジラ』に掛けて、ついたニックネームは『赤ゴリラ』。あっという間に、チームに溶け込んだ。
ところがそのオフ、山本浩二監督が退任。新任のブラウン監督は、固定メンバーで最後まで戦う野球を標ぼうした。守備固めでの出場はほとんどなくなり、時折代打に起用されたが打率は一向に上がらなかった。そこで、二度目の戦力外。まだ30歳、脂の乗り切った年齢である。
「もう一回、勝負できるかなと思ってトライアウトを受けました。だけど、声は掛からなかった。やり切ったかと言われれば、そうじゃない。でも現実は現実。そこでひと区切り、NPBのユニフォームを脱ぎました」
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福井敬治(ふくい・けいじ)
【撮影:スリーライト】