五輪マラソン代表へ“挑戦”選んだ小原怜 代表権は失うも、補欠見据え次の準備を
“結果待ち”を選ばず 出場を決めた小原
そこには昨年9月のMGCでは2位に4秒差の3位になり、“ファイナルチャレンジで選考基準を満たす選手がいなければ代表内定”という権利を持っていた、小原怜(天満屋)も出場した。
武冨豊監督が「出場は本人の希望だった。設定記録突破は甘いものではないから、その覚悟を持って取り組んでいこうと話した」という今大会。その設定記録2時間22分22秒は、日本歴代9位に相当する記録で、2018年9月のベルリンマラソンで松田が出した2時間22分23秒より1秒速いもの。男子の設定記録は日本記録を1秒上回る2時間5分49秒だが、それと比べれば女子は突破する選手が出てもおかしくない。そんな状況の中で“待ち”を選択するというのは危険だったこともある。
だが、そこへ向け、小原は万全とは言えない状況だった。練習段階で左アキレス腱の痛みが出た上、レース当日も風邪気味だった。武冨監督は「風邪気味だったというのは間違いないし、アキレス腱が痛くなってからは練習の予定を変更するというのも確かにあった。それでもレースに向けては状態も良くなってきていたので、悪くない感じで臨めたと思う」と言う。
余裕があるように見えたが……
その中で小原は、余裕を持って走っているように見えた。「最初からハイペースできつかったけれど、五輪で戦う戦うためにはこのくらいのペースで走らなければいけないと思っていた」と話す。だが、福士加代子(ワコール)が集団の最後尾まで下がって遅れそうになった16.2キロ過ぎでは、小原も集団の後方に位置するようになった。そして16.7キロ過ぎから徐々に遅れ始め、20キロ地点では先頭と20秒差がつき、完全に脱落したのだ。
本人いわく「左アキレス腱にも痛みはありましたが、レースの途中で右小指の皮がむけてしまい、爪が緩むまでになっていた」という状態。小原は、20キロ以降は5キロごとのラップを17分40秒、18分台とペースを落としながらも走り続けた。「たくさんの応援があったし、たくさんの人が頑張れと言ってくれたので、途中で投げ出したくなかった」と、2時間28分12秒の13位でゴールした。