礒貝洋光の美学「どうせ負けるなら…」 帝京PK戦、最後のキッカーは何を考えたか
Jリーグ初期、ラモスが認めた後継者
かつての天才・礒貝洋光はどんなサッカー人生を歩んだのか。本人の証言とともに振り返る 【Getty Images】
礒貝洋光、50歳――。彼にとって、サッカーとはどんなものだったのだろうか。
※リンク先は外部サイトの場合があります
帝京時代は超高校級と称され、東海大在学時には学生ながらキリンカップ(91年)の日本代表に選ばれた。Jリーグ創設後はガンバ大阪などでプレーし、左右両足から繰り出される正確無比なキックと、一撃で相手の急所を突くスルーパスを武器に、初期のJリーグを彩った名手としても知られる。だが、才能を高く評価する声があった一方で、「テクニックはあるが、走れない」「キックの質は最高だが、プレーに一生懸命さがない」と批判的な声も少なくなかった。
プロ入りから約7年、98年秋に日本代表がワールドカップ杯初出場を決めた直後、浦和レッズに移籍していた礒貝は、シーズン途中にひっそりとスパイクを脱いだ。29歳だった。
「熱くなれない性格は昔から。自信があって、どこかで(サッカーに)飽きちゃったのかもしれない。カラダのなかに “カビ”があったのか、気力がなかったのか、走ることを何かが邪魔したんだろうね。サッカーとちゃんと向き合えなかった自分がいた。小さい頃はいつもサッカーの神様に愛されて飴玉をもらえたけど、大人になると飴玉に見せかけて違うものをくれた」
自らのキャリアについて礒貝は独特の言い回しでそう振り返ったが、そこにはどんな葛藤があったのか。
帝京でドリブラーからパサーへ
Jリーグではパサーとして君臨したが、もともとのプレースタイルはドリブラーだった 【写真:岡沢克郎/アフロ】
「高校に入った頃の俺はドリブルをしまくっていた。だって、1人、2人なら簡単に抜ける自信があったからね。でも、帝京には1年は基本2タッチ以上しちゃいけないというルールがあって、練習試合でそんなことも知らずにサイドからセンタリングを上げずにドリブルでぶち抜いてハットトリックしたら、試合後にコーチが『あそこはダイレクトでクロスだろ!』って。俺の印象はドリブルよりパス? まあ、そういう状況でスタイルは変わったのかも。でも、例えば国体の東京都選抜での俺のプレーを覚えている人は、好き放題ドリブルしているイメージしかないって言うけどね。ドリブルしていた時は体力があったけど、しなくなると体力はなくなっちゃうわな(苦笑)」
プロ入り後はパサーとして鳴らしたが、その背景には高校時代に得意のドリブルを制限された過去が影響したということか。
「コーチに人を使って簡単にプレーすることを覚えろ、と言われたらそうなるし、ドリブルでガチャガチャ行くより1本のパスでディフェンスを一気に崩せるなら、そっちの方がいいっていう考えも出てきた。高1の冬のトヨタカップでミシェル・プラティニ(元フランス代表のスーパースター、ユベントスなど)が、鬼のようなパスを連発している姿も見たしね。パスに魅力を感じちゃったら、もう汗を流したくないじゃん」
礒貝の帝京時代を代表する試合の1つが、3年時の第66回大会高校サッカー選手権準々決勝の東海大一戦である。
当時の帝京には礒貝のほか、同期に森山泰行(元日本代表、名古屋グランパスなど)や本田泰人(元日本代表、鹿島アントラーズなど)、飯島寿久(元名古屋など)ら、1学年下にものちにJリーグでプレーした池田伸康(元浦和など)や遠藤雅大(元日本代表、ジュビロ磐田など)、保坂信之(元ヴェルディ川崎など)ら豪華なメンバーが並び、対する前年度王者の東海大一もキャプテンの澤登正朗(元日本代表、清水エスパルス)や吉田康弘(元鹿島など)をはじめ実力者をそろえていた。