礒貝洋光の美学「どうせ負けるなら…」 帝京PK戦、最後のキッカーは何を考えたか
東海大一とのPK戦、5人目のキッカー
少し後ろめたいようなことも正直に話す。高校時代の思い出話も決して飾ることはない 【栗原正夫】
試合は東海大一が終始主導権を握るも、帝京も途中、負傷者が出るなど満身創痍ながら懸命の守備から少ないチャンスにかける白熱した展開となった。だが、最後までスコアは動かず、0-0の末にPK戦で軍配は静岡代表に上がった。
「あの年はいいメンツがそろっていたし、普段から大学や日本リーグのチームとも練習試合をしていて、相手はもちろん本気じゃなかったんだろうけど、なんとなくいい勝負できて、どこか舐めていたというか調子に乗っていた部分があったんだと思う。自信があったとかじゃなく、心のなかで『今さら高校生とやるの?』というか。もちろん、結果的には東海大一は強かったし、勝つべくして勝ったと思うけど、優勝を狙っているなか一戦一戦に集中できていなかった。個人的にコンディションが悪いとか、そういうことはなかったんだけどね……」
PK戦は、両チーム4人ずつを終えて2-3の1点ビハインドで5人目の礒貝に回ってきた。先行の礒貝が成功しても、後攻の東海大一の5人目FW平沢政輝(同年の得点王、元トヨタ自動車など)が成功すれば、帝京の負けが決まる。そんななか礒貝の放ったシュートは、何とも中途半端で相手GKの胸のなかにすっぽりと収まった。そして、負けて涙に暮れる選手が多いなか、礒貝の淡々とした姿が印象的だった。
「普通、PKは(GKに簡単に)キャッチされないよね。ふざけていたのか、ふざけていなかったかは分からない。ただ、俺が決めても最後に平沢が決めたら東海大一の勝ちだったから、どうせ負けるなら俺で終わらせた方がいいんじゃないかなと。そうしないと、翌日の新聞の一面も向こうにいっちゃうしね。怒られるかもしれないけど、そんなことを考えながら有耶無耶(うやむや)に蹴ったというのが本当のところ。ただ、みんなが決めてきたら、俺も決めていたと思う。勝負はそういうもの。高校生らしく涙を流せばよかったのかもしれないけど、そういう心境じゃなかったんだろうね」
正直にそう話す、彼の言葉にウソはないだろう。理想は高いが、泥臭さや貪欲さとは無縁。真剣味やストイックさが足りないという指摘はもっともだが、それが礒貝の美学だったのだ。
いち早くバルセロナに目をつけるが…
大学時代はバルセロナに留学し、いち早くクライフ率いるバルサに注目。「先見の明だけはあった」 【Getty Images】
海外でのプレーを夢見て、礒貝はモチベーションを新たに海を渡った。ただ、時はまだJリーグが誕生する前の89年。行ってはみたものの、日本人の若者を受け入れてくれるクラブなど皆無だった。
「当時は情報もなく、サポートしてくれる人だっていなかった。周りには反対されたけど、クライフはアイドルだったし、どうしてもバルセロナのサッカーを“生”で感じたかった。レアル・マドリーとの“クラシコ”にカメラマンとして入れてもらい、プレーの1つ1つに監督クライフがどう反応するかは興味があった。もちろんバルセロナに限らず、ペンとノートを持ってサンシーロとサンチャゴ・ベルナベウに行きミランとレアルのチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)も見た。いち早くバルセロナのサッカーに目をつけるなど、先見の明だけはあった(笑)。
ただ、結果的に半年ほど海外に行っても、プレーするチームがあったわけじゃないし、その年は90分の試合を1試合しかできなかった。そこでサボった分は、あとに響いただろうね。例えば、最近の南野くん(拓実、ザルツブルク)を見ても、キレのある動きは海外に行ってもずっと試合に出続けていた結果でしょ。いま思えば20歳くらいの頃は、どんどん試合をして体力をつけないとダメだってことなんだろうね」
状況が状況なら、礒貝はのちのJリーグで「俺かレオナルド(元ブラジル代表、鹿島アントラーズなど)っていう時代があったかもしれない」とも言ったが、すべては絵に描いた餅に終わった。
その後、一度は大学に復帰し、Jリーグ開幕前年の92年に中退してG大阪に入団。だが、すでに礒貝のサッカーへの熱は冷めてしまっていた。(敬称略)
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1969年4月19日、熊本県生まれ。帝京高から東海大(中退)を経て、92年ガンバ大阪に入団。帝京高では1年から背番号10を背負い、東海大でも多くのタイトルに恵まれた。Jリーグではガンバ大阪、浦和レッズで計135試合出場29ゴール。91年4月のスパルタク・モスクワ戦で日本代表デビュー(対戦相手がクラブチームだったため国際Aマッチにはカウントされていない)。国際Aマッチ出場は2試合。98年に浦和レッズ退団後はプロゴルファーを経て、自由人に。