稚内大谷は出れば「最北出場校」を更新 北海道唯一の甲子園未踏地、名寄支部の雄
最果ての国境の街から甲子園へ。稚内大谷には「夏の決勝で3度サヨナラ負け」という悲運の歴史がある 【田澤健一郎】
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40年前から地区の期待を一身に背負う存在
国境─―ここが日本の最果てであることを強く意識させられる街。そして、北海道、いや日本でも有数の「悲願校」が初の甲子園を目指して白球を追っている街。
高校は稚内大谷という、1963年創立の私立校である。
もともと女子校として誕生した稚内大谷の野球部は、学校の共学化に伴い1969年に創部された。北海道の高校野球界は、支部と呼ばれる10の地区に分かれる。行政区では宗谷管区の稚内大谷だが、属している支部は名寄。夏の49地区では北北海道大会を戦う。
名寄支部は、現在、北海道で唯一、甲子園出場校を出していない地区だ。支部内、どの高校が出場しても、その時点で日本最北端出場記録を更新する。稚内大谷は、その期待を一身に背負う存在である。それも、40年も前から。
そんな土地柄の子どもたちが集う野球部は、グングン頭角を現す。夏の北北海道大会で8強以上は10回を超え、名寄支部内では、まさに無敵。その言葉は誇張ではなく、1991年春から1999年秋には名寄支部予選で100連勝を記録。1980年代から1990年代にかけては優勝候補筆頭になったこともあり、1989年春には全道大会も制した。
稚内大谷がもっとも甲子園に近づいたのは、1980、1981、1993年。いずれも夏の北北海道大会で決勝に進出したときだ。「夏に3度の決勝敗退」は他県でもある話だが、稚内大谷の悲運は、3度の準優勝が、すべてサヨナラ負けだったことだ。
夏の決勝で3度サヨナラ負け
続く1981年の相手は帯広工。前年同様、先に2点を失うが、3回表に1点、7回表に1点を挙げて同点に追いつき、試合は延長戦へ。迎えた11回裏、稚内大谷は一死満塁のピンチを迎える。ここで帯広工がスクイズを仕掛けるも、稚内大谷バッテリーは見抜いて投手がウエスト。スタートを切っていた三塁走者を三本間で挟みピンチ脱出かと思われたが、なんとキャッチャーが、アウトを免れようと膨らんだ走者にタッチをしたはずみで落球。アウトだと立ち止まった走者が慌ててホームインし、サヨナラ負けとなった。「3フィートオーバーではないか」「落球はタッチ後ではないか」と確認が行われたが、結局、主審の判定は変わらず。まさに地獄から天国、そしてまた地獄。
三度目の正直で臨んだ1993年夏は、伸び盛りの2年生投手・大林信夫と捕手で一番を打った宇佐美康広(元・ヤクルト)のバッテリーが牽引しての決勝進出。相手は1980年に苦汁をなめさせられた旭川大高だった。ゲームは両軍ゼロ行進で進んだが8回表に稚内大谷が1点を先制。1対0とリードしたまま9回裏を迎える。ここを抑えれば、ついに初の甲子園。走者を二塁まで進めたものの2死と旭川大高を追い込む。あと1人、あと1人抑えれば甲子園。そして、相手打者の打球がゴロとなってセカンドに飛ぶ。ついに悲願達成かと思われた瞬間、その歓喜は無情にも悲鳴に変わる。セカンドがゴロを弾いてしまったのだ。さらには焦ってサードへと送球したボールが逸れて二塁走者が一気に生還。試合はまさかの振り出しに。稚内大谷にとって、悪夢としか表現できない同点劇。
それでも稚内大谷は気を引き締め直し、後続を断って試合は延長戦へ。だが10回裏、1死から出した走者を二塁に進められた後、相手打者が放ったショートゴロが内野安打となって二塁走者がホームイン。決勝三度目のサヨナラ負けを喫してしまった。
あと少しと近づくたびに、あざ笑うかのように目の前からフッと消え失せる甲子園。これならば、まだ大差で敗戦したほうがスッキリと諦めもつくだろう、というような敗戦。