連載:あと一歩!逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語

稚内大谷は出れば「最北出場校」を更新 北海道唯一の甲子園未踏地、名寄支部の雄

田澤健一郎

最果ての国境の街から甲子園へ。稚内大谷には「夏の決勝で3度サヨナラ負け」という悲運の歴史がある 【田澤健一郎】

 北海道に、まだ甲子園出場校がない地区の有力校として、長く健闘を続けているうえに、夏の北北海道大会の決勝で悲劇的な敗戦を繰り返している、悲願校がある。さらに、その高校の甲子園出場が叶えば、最北端甲子園出場校記録の更新もほぼ確実。まさにロマンと物語性に満ちた悲願校らしい悲願校。その高校を訪ねる旅は、北海道の大地の広さを味わうことから始まった。

40年前から地区の期待を一身に背負う存在

 札幌からクルマでも電車でも約5時間。同じ北海道にありながら、新幹線で東京〜新大阪間の2倍の時間を要する。日本最北端、稚内とはそういう地にある街だ。稚内駅を降りると、目の前は稚内港。かつて大勢の人々が樺太(サハリン)に行き来するために、この港から連絡船に乗り込んだ。今も港から海を眺めれば、宗谷岬の方角に見えるのは樺太の姿。市内の道路標識には日本語と英語の表記のほかロシア語表記が並ぶ。

 国境─―ここが日本の最果てであることを強く意識させられる街。そして、北海道、いや日本でも有数の「悲願校」が初の甲子園を目指して白球を追っている街。

 高校は稚内大谷という、1963年創立の私立校である。

 もともと女子校として誕生した稚内大谷の野球部は、学校の共学化に伴い1969年に創部された。北海道の高校野球界は、支部と呼ばれる10の地区に分かれる。行政区では宗谷管区の稚内大谷だが、属している支部は名寄。夏の49地区では北北海道大会を戦う。

 名寄支部は、現在、北海道で唯一、甲子園出場校を出していない地区だ。支部内、どの高校が出場しても、その時点で日本最北端出場記録を更新する。稚内大谷は、その期待を一身に背負う存在である。それも、40年も前から。
 稚内を含む宗谷管内は、もともと野球が盛んな地域である。北の海に面した港町。千葉の銚子など、野球に沸く港町は多いが、稚内もまたしかり。漁を終え、港に還ってくれば野球に興じる海の男たち。一時、管内の軟式野球チームは、100を超えていたという。

 そんな土地柄の子どもたちが集う野球部は、グングン頭角を現す。夏の北北海道大会で8強以上は10回を超え、名寄支部内では、まさに無敵。その言葉は誇張ではなく、1991年春から1999年秋には名寄支部予選で100連勝を記録。1980年代から1990年代にかけては優勝候補筆頭になったこともあり、1989年春には全道大会も制した。

 稚内大谷がもっとも甲子園に近づいたのは、1980、1981、1993年。いずれも夏の北北海道大会で決勝に進出したときだ。「夏に3度の決勝敗退」は他県でもある話だが、稚内大谷の悲運は、3度の準優勝が、すべてサヨナラ負けだったことだ。

夏の決勝で3度サヨナラ負け

 まず1980年は、現役時代、「オホーツクの鉄腕」と称された貝森好文監督がチームを率い、旭川大高と激突した。稚内大谷は2点を先制されるも8回に追いつく。しかし、9回裏にサヨナラ打を浴び、1点差で敗戦。稚内大谷は7回以外の全イニングで走者を出したが、あと一本が出なかった。初の決勝で緊張もあったのだろう。サヨナラ打を浴びたエース・手塚光行も、尻上がりに調子を上げていたにもかかわらず、9回裏になると突如、制球を乱した。「あまり、あせったりしないクチなんですが、9回裏は何かこう……落ち着かなかった」(北海道新聞・昭和55年7月22日号)とは手塚の試合後のコメントである。

 続く1981年の相手は帯広工。前年同様、先に2点を失うが、3回表に1点、7回表に1点を挙げて同点に追いつき、試合は延長戦へ。迎えた11回裏、稚内大谷は一死満塁のピンチを迎える。ここで帯広工がスクイズを仕掛けるも、稚内大谷バッテリーは見抜いて投手がウエスト。スタートを切っていた三塁走者を三本間で挟みピンチ脱出かと思われたが、なんとキャッチャーが、アウトを免れようと膨らんだ走者にタッチをしたはずみで落球。アウトだと立ち止まった走者が慌ててホームインし、サヨナラ負けとなった。「3フィートオーバーではないか」「落球はタッチ後ではないか」と確認が行われたが、結局、主審の判定は変わらず。まさに地獄から天国、そしてまた地獄。

 三度目の正直で臨んだ1993年夏は、伸び盛りの2年生投手・大林信夫と捕手で一番を打った宇佐美康広(元・ヤクルト)のバッテリーが牽引しての決勝進出。相手は1980年に苦汁をなめさせられた旭川大高だった。ゲームは両軍ゼロ行進で進んだが8回表に稚内大谷が1点を先制。1対0とリードしたまま9回裏を迎える。ここを抑えれば、ついに初の甲子園。走者を二塁まで進めたものの2死と旭川大高を追い込む。あと1人、あと1人抑えれば甲子園。そして、相手打者の打球がゴロとなってセカンドに飛ぶ。ついに悲願達成かと思われた瞬間、その歓喜は無情にも悲鳴に変わる。セカンドがゴロを弾いてしまったのだ。さらには焦ってサードへと送球したボールが逸れて二塁走者が一気に生還。試合はまさかの振り出しに。稚内大谷にとって、悪夢としか表現できない同点劇。

 それでも稚内大谷は気を引き締め直し、後続を断って試合は延長戦へ。だが10回裏、1死から出した走者を二塁に進められた後、相手打者が放ったショートゴロが内野安打となって二塁走者がホームイン。決勝三度目のサヨナラ負けを喫してしまった。

 あと少しと近づくたびに、あざ笑うかのように目の前からフッと消え失せる甲子園。これならば、まだ大差で敗戦したほうがスッキリと諦めもつくだろう、というような敗戦。

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著者プロフィール

1975年生まれ、山形県出身。高校時代は山形県の鶴岡東(当時は鶴商学園)で、ブルペン捕手や三塁コーチャーを務める。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターに。野球などのスポーツ、住宅、歴史などのジャンルを中心に活動中。共著に『永遠の一球 〜甲子園優勝投手のその後』(河出書房新社)など。

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