連載:あと一歩!逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語

稚内大谷は出れば「最北出場校」を更新 北海道唯一の甲子園未踏地、名寄支部の雄

田澤健一郎

若手監督の指導方法にも変化

 その後、稚内大谷に夏の北北海道大会決勝進出はない。2000年代に入ると名寄支部予選で敗退もするなど、以前のような強さには陰りが差している。ただ、野球部自体の活動が衰退したり熱が下がったわけではない。全国の地方に迫る過疎化、少子化の波は稚内にも訪れた。子どもの数が減少し、稚内大谷も一時期、生徒数自体が定員を割る状態に。

「今も昔も選手はほぼ、宗谷管内の出身です。ただ、昔は子どもの数も多く、大勢の野球人口の中から競争を勝ち抜いてきた選手たちが中心でしたから」と語るのは、現在、稚内大谷を率いる本間敬三監督だ。野球どころの手練れの選手たちが集結した時代から、入部してくれた選手たち全員を鍛え、甲子園を狙えるチームに育てる時代への変化。当然、年によって戦力にはバラつきも出る。それでも、2016年秋、2017年春と連続して全道ベスト4。秋に関してはあと2勝で甲子園がほぼ確定だった。

 本間監督は1986年生まれで札幌市出身。東海大四(現・東海大札幌)OBで、控えながら2001年春に甲子園も経験した。札幌大卒業後、民間企業勤務を経て、父が稚内出身ということに加え、知人の縁もあって稚内大谷の教員に。野球部では部長などを務め、2014年から監督に就いている。監督としては若手といっていい。2016年秋の準決勝は、その若さゆえか「勝ちたい、勝ちたい」と力が入ってしまった。

 久しぶりの上位進出。視界の先に見え始めた甲子園。名寄支部、宗谷管内、稚内市内から初の甲子園、悔しい思いをしたOBたちの思い。学校としては久しぶりの上位進出だが、本間監督としては初の上位での戦い。「力むな」は、言うは易し、行うは難し。

 本間監督は今、この経験も踏まえ、指導方法を変え始めている。2018年のオフは、実戦練習が本格化する時期まで練習内容を指示しないことにした。選手たちが自身で課題を見つけ、練習を考案し、実行する。本間監督は、ただそれを見守り、直接的な指導は、求められればアドバイスをする程度。このプロセスで選手が成功体験を積み重ねられれば、自信につながるのではないか、と考えた。監督が「勝ちたい」と力まなくても、いわば何もしなくても、選手たちが自信を持って、落ち着いてプレーできるようになれば、より強くなれるのではないか、と考えた末の決断である。

「いろいろ言いたくなるときもあります。まだ慣れませんね(笑)。ただ、このやり方が成功すれば、選手たちはより野球が楽しいという気持ちになれるはず。甲子園は、そんなチームを迎え入れてくれる気がするんです」

「ずっと観察していると、“あの選手、こんなこともできるのか”なんて、意外な発見もありますよ」と語る本間監督の取り組みの成果が楽しみである。

「宗谷の子たちで甲子園に行きたい」

 となると、むしろ心配なのは、少子化が進む地域の問題。大げさにいえば学校存続の心配だ。ただ、今のところ、稚内大谷はそこまでシビアな状況には追い込まれていない。

 北海道で進む高校再編の過程で、稚内市にあった稚内と稚内商工という2つの道立高校のうち稚内商工が閉校。もともと宗谷管内で唯一の私立校だった稚内大谷だが、今は市内の貴重な高校2校のうちの1校となった。それもあってか、最近は生徒数の定員割れは起こしていない。さらに、市内に実業系の高校がなくなったことを受け、商業系から工業系、以前から取り組む介護系と、種々の資格取得にも熱心に取り組んでいる。地域のニーズに合わせて教育内容をカスタマイズする。それは公立よりも意思決定がしやすい私立の方が迅速に進められるのかもしれない。稚内大谷は、市民の大切な教育機関として、存在価値が高まっている。感覚的には、私立というよりも、地域に密着した公立のような印象だ。

 また、現在の山下優校長は野球部の元監督。過去の決勝敗退を肌で知る人である。スポーツに打ち込みたい地域の生徒のためという意義も含め、部活動への理解は深い。

 とはいえ、最後は野球の試合で選手たちが勝ち上がる必要がある。その点でハンデが多いのはたしかだ。同じ市内の稚内を除くと、最も近い練習試合の相手までクルマで1時間半。支部予選も会場によっては泊まりになる。強化のためレベルの高い相手と腕試しはしたいが、かかる時間と金は膨大。なんといっても東京や大阪より、ロシアが近い街なのだ。

 私は少し意地悪な気持ちで、私立なんだから全国から選手をスカウトしてきて甲子園を狙うこともできるのでは? と、本間監督に訊ねてみた。

「たしかにそういう方法もあります。しかし、今のところ学校の生徒数も、少子化で余裕はありませんが、まだ危機的状況までは追い込まれていませんし、何よりこれまでの歴史を考えれば、できる限り、宗谷の子たちで甲子園に行きたいんです。街も絶対に盛り上がりますしね」

 野球が盛んなこの街には、稚内大谷の悲運を経験した人間、知る人間が大勢おり、その魂は、現在の選手にも引き継がれている。実際、親子2代で稚内大谷野球部員という選手も少なくない。そんな地域の願いを、本間監督はじゅうぶん理解している。

 レベルが上がり続ける高校球界の中で、純といえば純な願いかもしれない。

 だが、稚内大谷と宗谷管区、名寄支部という地域が高校球界で歩んできた悔しい歴史を知れば、それを甘いと簡単に一蹴することはできない。

 最果ての国境の街から甲子園へ。それだけでもロマン溢れる話だが、稚内大谷には、さらに積み重ねてきた「夏の決勝で3度サヨナラ負け」という悲願の歴史がある。

 聖地を踏む日が来たとき、この街の人々が流す涙は、計り知れない量となるだろう。

※本記事は書籍『あと一歩!逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語』(KADOKAWA)からの転載です。掲載内容は発行日(2019年4月19日)当時のものです。

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著者プロフィール

1975年生まれ、山形県出身。高校時代は山形県の鶴岡東(当時は鶴商学園)で、ブルペン捕手や三塁コーチャーを務める。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターに。野球などのスポーツ、住宅、歴史などのジャンルを中心に活動中。共著に『永遠の一球 〜甲子園優勝投手のその後』(河出書房新社)など。

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