地味な中堅だった飯塚高史が、“狂乱引退”を果たすまで

高木裕美
 21日の新日本プロレス「NEW JAPAN ROAD 〜飯塚高史引退記念大会〜」東京・後楽園ホール大会では、札止めとなる1726人を動員。“クレイジー坊主”飯塚高史が、超・型破りな引退試合で約32年に及ぶプロレスラー人生に終止符を打った。なお、会場にはアイドルグループ「ももいろクローバーZ」のメンバーも駆けつけ、客席から声援を送った。

転機は橋本真也とのタッグ

約32年に及ぶプロレスラー人生に終止符を打った“クレイジー坊主”飯塚高史 【写真:SHUHEI YOKOTA】

 飯塚は北海道室蘭市出身の52歳。1986年11月に野上彰(AKIRA)を相手に本名の飯塚孝之としてデビューし、89年にはグルジアでサンボを習得。同年7月には、長州力と共に第10代IWGPタッグ王座を獲得した。90年には、藤波辰爾を中心に結成されたユニット「ドラゴン・ボンバーズ」にも加入。93年9月には野上と共に「J・J・JACKS(ジャパニーズ・ジョリー・ジャックス=日本の陽気な男たちの意)」を結成。また、新日本道場のコーチを長年に渡り務めた。

「実力はあるが地味な中堅選手」というポジションであった飯塚にとって、一つ目の大きな転機となったのが、2000年1.4東京ドームでの「魔性のスリーパー」誕生だ。飯塚は故・橋本真也さんと組んで、対立するUFOの小川直也&村上和成組と対決。1年前の「遺恨試合」以来、小川に押されっぱなしの橋本さんに対し、飯塚は村上をこのスリーパーホールドで一蹴。一躍、新日本の「救世主」としてブレイクしたが、翌年、首を負傷して長期欠場に追い込まれた。
 そして二つ目が、天山広吉との「友情タッグ」結成と、その後のヒール転向だ。08年2月、自らが結成したユニットG・B・Hを追放された天山を飯塚が救出し、3月に初タッグを結成。3.23尼崎大会では、天山の37歳の誕生日を飯塚がケーキを手に祝福し、互いの身を呈して相手の攻撃をかばう姿が話題を呼ぶと、4.12蓮田大会からは、2人が肩を組んだ「友情タッグTシャツ」も発売開始。4.27大阪大会では、憎きG・B・Hの真壁刀義&矢野通組の持つIWGPタッグ王座へ挑戦するが、なんと、飯塚は天山を裏切って背後から魔性のスリーパーを炸裂。2人の「友情」は終わりを告げた。

 直後に飯塚は頭をスキンヘッドに刈り上げ、「アイアン・フィンガー・フロム・ヘル」と呼ばれる鉄の凶器を振りかざす怪奇派ヒールに大変身。その後も裏切りと反則攻撃を繰り返し、09年からはCHAOS、14年には鈴木軍入りした。また、10年8月からは実況席に座るテレビ朝日の野上慎平アナウンサーを標的に定め、入場時に襲撃。ワイシャツをビリビリに破かれた野上アナが、裸ネクタイ姿で実況をするのが「お約束」となっていた。なお、なぜ飯塚が野上アナを襲うのか、多くのファンは「名字のせい」と疑ってはいるが、その理由は不明のままだ。

2.2札幌大会のリングで「更生」どころかテロリストに転身 【写真:SHUHEI YOKOTA】

 だが、今年1月、飯塚の引退が本人抜きで発表されると、天山は2.2札幌大会のリングで友情タッグ復活を呼びかけ、飯塚を「更生」させようとするが、飯塚はこれを無視し、ついにはテロリストに転身。引退前最後の試合となった2.11大阪でも、天山が着た友情タッグTシャツを破り捨てて拒絶した。

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著者プロフィール

静岡県沼津市出身。埼玉大学教養学部卒業後、新聞社に勤務し、プロレス&格闘技を担当。退社後、フリーライターとなる。スポーツナビではメジャーからインディー、デスマッチからお笑いまで幅広くプロレス団体を取材し、 年間で約100大会を観戦している 。最も深く影響を受けたのは、 1990年代の全日本プロレスの四天王プロレス。

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