2009年 史上最も長丁場のシーズン 後編 シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
反町監督にとって「会心のシーズン」だった09年
多忙だった当時のことを、しみじみと振り返った長岡 【宇都宮徹壱】
「試合前日の搬入作業を終えたら、事務所に戻って翌日の準備。日曜日の試合が終わっても、水曜日に連続でホームだったら、月曜日に出社してマッチデー(プログラム)の制作。当時は僕がマッチデーの担当だったので、記録をアップデートしたり原稿を書いたりもしていました。ホント、いつ休むんだろうという感じでしたね(苦笑)」(長岡)
「当時は広報も一人体制でしたし、アウェーにも帯同していたので大変は大変でした。それでも『キツい』とは思わなかったです。11年ぶりのJ1昇格という目標をみんなで共有していましたし、毎試合のようにドラマがあって私自身もワクワクしていましたから、一生忘れられないシーズンですよね」(遠藤)
監督の反町にとっても、この09年は忘れられないシーズンとなったが、51試合を戦うレギュレーションには今も割り切れなさを感じている様子。いわく「今は42試合だけど、プラス9試合だよ? 42.195キロのマラソンをして、さらに9キロとか走れないのと一緒だよ」。しかし同時に、09年は「会心のシーズン」であったとも断言する。
「自分のイメージと選手のクオリティーが、見事に合致していたよね。特に攻撃面で、良い部分を前面に押し出すチーム作りができていた。俺自身も、これまで海外で学んできたこと、(日本代表コーチ時代に)オシムさんに教えてもらったこと、そして五輪代表監督として経験してきたことを発揮できていた。結末が劇的だったことも含めて、あんなにうまくいったシーズンはなかったね。もしかしたら今後も、ないかもしれない」
翌10年にJ1に参戦した湘南は、結局1シーズンでJ2に降格。11年のJ2を14位で終えると反町は辞任し、ヘッドコーチの曹貴裁(チョウ・キジェ)が後任監督となる。その後も昇格と降格を繰り返しながらも、反町が導入したスタイルにさらなる磨きをかけ、独自の「湘南スタイル」を確立。やがて18年のルヴァンカップ優勝へと昇華する。
一方、湘南を去った反町は、12年からJ2の松本山雅FCの監督に就任。就任3年目の14年にはJ1昇格に導いているが、この時は「すんなり決まって実感がなかった」。結局1シーズンでJ2降格となったが、それから3シーズン目となる今季、J2優勝という最高の形で再びJ1昇格を果たした。試合後の映像を見ると、この時ばかりは選手たちの中心で、優勝シャーレを破顔一笑で掲げる反町の姿が印象的であった。自身4回目となるJ1昇格。反町にとっては、09年を超える「会心のシーズン」だったのかもしれない。
<この稿、了。文中敬称略>