松井秀喜氏は始球式に力むも…星稜の後輩たちは完勝をプレゼント

楊順行

竹谷主将と松井の不思議な縁

後輩の星稜ナインをバックに、開幕戦の始球式を務めた松井秀喜氏。奥にいるのが先発を務めた奥川 【写真は共同】

「大きくなったなあ。始球式をするけど、試合に集中して」

 その人に、そう言われたそうだ。第100回全国高等学校野球選手権大会。記念大会とあって、連日、甲子園のレジェンドが始球式をすることが決まっており、その第1日は星稜(石川)OBの松井秀喜に決まっていた。そして、星稜の竹谷理央主将が、抽選会で引き当てたのが開幕戦のクジ。つまり、よりによって自分たちの試合で、その人・偉大なOBが始球式をするわけで、まるで見えざる手が働いたかのような抽選結果だ。松井の1年後輩で、三遊間を組んで甲子園にも出場した林和成監督は「ちょっと震えが止まりませんでした」と、頭が真っ白になったという。

 ちょっと脱線して……星稜のクジ運で思い出すのは、1992年の夏だ。主将の松井が引いたのは、勝ち上がると明徳義塾(高知)と対戦するクジ。つまり、球史に残る5打席連続敬遠は、ある意味松井の自作自演でもあったのだ。

 実は、開幕戦のクジを引いた”殊勲”の竹谷主将は小学生時代に、松井と対面している。

 父でアメリカ出身のスティーブン・ペンドルトンさんが、松井秀喜ベースボール・ミュージアムの展示品の開設を英訳した縁で、当時ヤンキースに在籍していた松井が帰国したとき、家族と一緒に写真に収まったのだ。竹谷が地元の野球チームに入ったのは、そのあとのこと。それ以来の再会。竹谷は明かす。

「先攻後攻決めのじゃんけんをして通路を戻っているとき、松井さんとすれ違ったんです。そのときに声をかけてもらいました」

 なんとも、不思議な縁である。

 さて、その竹谷がじゃんけんで勝ち、藤蔭(大分)との開幕戦で後攻を選んだ星稜。始球式でマウンドに立った松井が投じたボールは、ショートバウンドだった。それでも球速十分で、4万2000人で埋まったスタンドがドッとわいた。そして、「楽しんで」とマウンドを譲られた2年の奥川恭伸は、150キロに迫る真っ直ぐを中心に、初回を三者凡退で切り抜けた。するとその裏は、東海林航介のヒットと2つの四球などで1点を先制と上々の立ち上がりだ。

林監督「良く動いてくれました」

 センバツ8強で迎えたこの夏の星稜、石川大会は記録的な強さで優勝した。金沢学院との決勝では、初回に南保良太郎、竹谷の連続本塁打で先制すると打つわ打つわ。竹谷はこの試合だけで4本、南保は3本のアーチとマンガのような強打を見せつけ、22対0で圧倒している。22得点は決勝での石川大会最多で、1試合7本塁打、竹谷の1試合4本、そして南保の大会5本は、松井も遂げられなかった大会新記録だ。結局星稜は5試合で53得点、投げては竹谷、奥川らの投手陣が5試合を無失点という、圧巻の代表だ。

 その後も打線は、攻撃の手をゆるめない。藤蔭がエース・市川晃大を先発させなかったことには「正直、びっくり」(林監督)したが、1対1の同点から3回には河井陽紀、1年生の内山壮真らのタイムリーで3点、4、6回にも着々と加点した。投げては奥川が4失点ながら「チェンジアップがいいところに決まっていた」(藤蔭・原秀登監督)うえ、8回に自己最速の150キロを計時するなど、8三振にまとめる。9回には、松井の根上中の後輩で期待の1年生・寺西成騎も登板し、完勝で発進した。

 林監督は言う。

「事前に、松井さんが初日に始球式をすると知ったときには、“なんとしても石川代表に”というプレッシャーはありましたが、今日は開会式の疲れもなく、選手たちも反応良く動いてくれました。試合前には松井さんから“監督が一番心配だ”と言われていましたが(笑)、松井さんこそショートバウンドなんて、力みましたかね」

 高校卒業後、母校の試合を初めて見た松井。勝利をしっかりと見届け、気持ち良く校歌を歌った。星稜が2回戦も勝てば、3回戦は8月16日の予定。1979年の夏に箕島(和歌山)と伝説の延長18回を戦い、92年には松井が5敬遠された、星稜にとっての特別な日である。

(敬称は略)
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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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