W杯を愛し、愛された男・本田圭佑 ロシアで果たした3大会連続得点の偉業

元川悦子

セネガル戦はリードされた直後にピッチに

背番号4・本田圭佑はセネガル戦で途中出場でピッチに入り、結果を残す 【写真:ロイター/アフロ】

「2戦目で(グループ突破を)決めないといけない」という西野朗監督の強気の姿勢を選手たちも脳裏に焼き付け、ロシア中部のエカテリンブルクで挑んだ24日(現地時間、以下同)の2018年ワールドカップ(W杯)ロシア大会第2戦のセネガル戦。19日の初戦・コロンビア戦では開始早々の6分に香川真司がPKによる先制弾を決め、相手が1人少なくなるという大きな追い風を受けたが、それとは対照的にセネガル戦では重苦しい入りを余儀なくされる。

「相手のスピードやフィジカル的な能力をリスペクトしすぎてしまった」と中盤のタクトを振るった柴崎岳が反省の弁を口にした通り、日本は後手に回り、開始11分にはミスの連鎖からサディオ・マネに早々と先制弾を奪われた。

 それでも日本はひるまず劣勢を跳ね返し、乾貴士の同点弾で試合を1−1で折り返す。後半は相手とのフィジカル差にも慣れ、大迫勇也や乾が立て続けに決定機を迎えるなど果敢に攻め込んだ。だが、それをものにできず、後半26分、逆に一瞬の隙を突かれて伏兵・右サイドバックのムサ・ワゲに追加点を献上。2度目のリードを許してしまった。

 この直後、指揮官はすぐさま香川に代えて背番号4・本田圭佑の投入に踏み切った。コロンビア戦では登場からわずか3分後にコーナーキックひと蹴りで大迫の決勝弾をお膳立てした32歳のベテランアタッカーに、西野監督は日本の命運を託したのだ。実際、交代前に指揮官は「前の方にいろ。大迫の近くでプレーしてくれ」とゴールに直結する仕事を要求。本田自身も「呼ばれた瞬間に失点したので、厳しい時間帯で入ることになった」と独特の緊張感を覚えつつ、一刺しを狙ってピッチに立った。

思い知らされた怪物のようなメンタリティー

本田はW杯3大会連続となる4得点目、しかもアフリカ勢に対する3連続弾という偉業を成し遂げた 【Getty Images】

 自身の3分後に岡崎慎司も投入され、日本は4−4−2へシフト。本田は右MFの位置でチャンスをうかがった。それが結実したのが登場から6分後の後半33分。ペナルティーエリア手前右の位置で大迫がクロスを上げたのが始まりだった。これに岡崎が反応。GKカディム・エンディアイエとゴール前で交錯し、2人そろってピッチに倒れ込んだ。ボールは左にこぼれ、拾った乾が中へ折り返す。この時、ファーサイドで待ち構えていたのが背番号4。本田は左足を振り抜き、無人のゴールネットを揺らすことに成功する。

 2010年南アフリカ大会のカメルーン戦とデンマーク戦、14年ブラジル大会のコートジボワール戦に続く、W杯3大会連続となる4得点目、しかもアフリカ勢に対する3連続弾という偉業達成の瞬間だった。

「こういう流れで出て、結果を出せたことはうれしく思っていますけれど、チームとして欲を言えば、1−1のまま僕が出てきて、勝ち点3を取りにいけたらという気持ちはありますよね。これがW杯の厳しさでもありますけれど」と本田は歴史的ゴール誕生よりも、2−2と勝ち切れなかった悔しさをにじませた。

 自身の集大成と位置付ける3度目の大舞台をスーパーサブという立場で迎えたことにも複雑な感情があるはずだ。それでも、本人は「サッカー人生でこれだけサブを前向きに考えられたことはなかった」と語る。「W杯が自分をそうさせてくれているし、準備の仕方は明らかにこれまでと違う。『一発目で決めないといけない』という緊張感の中で準備しているつもりなので」と高度な集中力を極限まで研ぎ澄ませた成果だったことをあらためて強調していた。

 そうして緻密な準備を積み重ねていても、本当に大舞台で決め切れる人間はそうはいない。あのリオネル・メッシでさえもW杯3大会連続ゴールは達成していないのだ。圧倒的な勝負強さの秘訣をあらためて問うと、「逆にそこにまだ気付いていないのという感じですよね。ちゃんとパーソナリティーを見てほしい」と苦言を呈されたが、その発言を含めて、W杯特有の重圧を大きな力に変えられる怪物のようなメンタリティーをいま一度、思い知らされた。

紆余曲折を強いられた4年間

 しかしながら、本田の3度目のW杯への挑戦は決して楽な道のりではなかった。8年前の南アフリカでエースの座へ駆け上がり、大黒柱として挑んだ4年前のブラジルで惨敗の憂き目に遭った男は、この4年間、紆余曲折を強いられてきた。

 14年9月、ハビエル・アギーレ監督率いる日本代表がロシアに向けての新たな一歩を踏み出した時、背番号4に与えられたポジションは右MFだった。アルベルト・ザッケローニ監督体制の4年間は一貫してトップ下を務めてきた彼にとっては新たなチャレンジだったが、当時所属していたミランでもこの位置で起用されていたこともあって、本人も新境地開拓に意欲的だった。

「自分の特性ではないと分かっている右サイドで気張ってやっている自分がいる。別にスピードがなくても点が取れることを証明したい」と彼自身も話したことがあったが、この4年の大半が新たな右サイド像を作るべく奮闘し続けた時間だと言っても過言ではない。

 けれども、30歳の大台を超えたあたりから、本田は壁にぶつかり始める。ミラン4年目の16−17シーズンはスソ、エムバイェ・ニアングといった若くスピードのあるウイングが台頭。出番が激減してしまったのだ。同シーズン、セリエA・8試合出場、1ゴールという結果は、高みを目指し続けてきた本人にとって、到底、納得のいく実績ではなかった。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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