試行錯誤でたどり着いた“現在地” 初戦で2m30越えした走高跳・戸邉直人
“雌伏の3年”を乗り越えて
2014年まで順調に成長曲線を描いていたが、その後は停滞気味になってしまった 【写真:アフロスポーツ】
そこからさらに飛躍を遂げたのが、14年である。大学院に通いながら、実業団に所属しないプロアスリートとしてスタートを切ったこの年、5月に日本歴代3位タイの2m31をクリア。7月以降の欧州遠征で三たび、2m30以上を跳んだ。自身が「絶好調だった」と言うように、当時の戸邉はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
しかし、そのシーズンを境に、右肩上がりだった成長曲線の角度が徐々に緩やかになっていく。
15年のシーズンを前にした冬季練習で踏み切り脚の左足アキレス腱を痛めたのが、最初のつまずきだった。5月の国際陸上競技連盟(IAAF)ダイヤモンドリーグ上海大会で北京世界選手権の参加標準記録である2m29をクリアし、日本選手権も4年ぶりに制して初の世界選手権代表の座をつかむまでは順調に回復したかに思われた。が、本番では公式練習中に右腰を痛めるアクシデントもあり、予選落ち。15年は「最低限の結果は残せたと思いますが、課題がたくさん出た」(戸邉)シーズンとなった。
そうして迎えた16年のリオ五輪イヤー。冬季のトレーニングはしっかりとこなせた一方で、例年参戦していた室内大会はとりやめた。「1月に大学の修士論文の提出があったから」というのが理由だが、「その分、日本でじっくりトレーニングを積むことができていた」と言う。ところが、初戦となる静岡国際に向けていよいよという4月下旬、跳躍練習中に踏み切り脚の左ふくらはぎを肉離れ。6週間ほどトレーニングを積めなかったのが痛かった。
そんな戸邉に追い打ちをかけるように、突然の悲報が届く。6月2日、筑波大陸上競技部の図子浩二前監督が亡くなったのだ。まだ52歳。戸邉にとってはパーソナルコーチであると同時に、大学院の指導教員でもあった。リオ五輪の代表選考を兼ねた日本選手権が約3週間後に迫り、ようやく跳躍練習ができるという段階での恩師の急逝。戸邉は当時を「現実感がなくて……、状況がよく分かっていませんでした」と振り返る。
ふくらはぎの故障は何とか回復したものの、日本選手権までに跳躍練習は3〜4回しかできなかった。大一番がシーズン初戦となってしまった戸邉は結局、試合勘を取り戻すまでには至らず、6位と惨敗。リオ五輪出場という目標は果たせなかった。
「ケガをするまでは五輪に行けないことは想定していませんでした。本番でどうするかを考えていたので、いざ行けないとなると放心状態。リオ五輪は自宅で観戦しましたが、図子先生のことも含めて、先のことがまったく見えない感じでした」
すぐに「4年後へ」と気持ちを切り替えることはできなかった。だが、戸邉は9月頃から筑波大競技会や日大競技会といった小さな試合に出場し始める。そこにあったのは、「また1つひとつ積み上げていくしかない」というシンプルな思いだった。そして、シーズンベストは2m25にとどまったものの、「日本選手権までにはうまく組み立てられなかった技術を、本来のあるべき姿に取り戻せた」との感触を得られたという。
シーズン終了後の冬季は、例年以上に体力の養成に努めた。「寒い時期のウエイトトレーニングは質も量も向上し、クリーンやスクワットのMAXは今でも自己ベスト(クリーン125キロ、ハーフスクワット215キロ)と言える重さを上げられました」。暖かくなるにしたがって、スプリントやジャンプ系のトレーニングを増やし、徐々に跳躍の動きに移行していった。
体力がついた実感を得られたことで、戸邉は17年シーズンに向けて、「技術的に助走の入り方をカーブを強調するようなかたちに変えた」。ただ、その挑戦も完全に消化できたとは言い難い。ロンドン世界選手権の参加標準記録(2m30)にチャレンジすることすらできず、日本選手権も3位タイ。7月上旬に欧州で2度2m26をクリアしたが、2大会連続の世界選手権出場はならず。そのため、「シーズン後半は助走で攻めていくのをやめて、もう一度以前のかたちに戻して組み立て直すことにしました」と話す。
模索は続いた。だが、そうした模索は自身のパフォーマンスを上げていくためには避けては通れないもの。戸邉の表情には、そんな達観にも似た境地が見て取れる。決してネガティブには捉えていない。
2020年東京五輪への青写真
5月3日の静岡国際は2m28で優勝。今シーズンは8月のアジア大会が最大のターゲットとなる 【写真は共同】
「日本選手権は、アジア大会の代表に選ばれるためには優勝、最低でも3位以内に入っておかないといけません。でも、日本選手権でピークを作るという意識はあまりなく、なだらかに上げて行きながらアジア大会でピークを迎えたいです」
男子走高跳は、世界の中でもアジアのレベルが高い。ロンドン世界選手権でも表彰台に上がった3人のうち、2人はアジア勢。優勝したのが世界歴代2位(2m43)を持つムタズ・エッサ・バルシム(カタール)だ。だからこそ戸邉は、「世界と戦う上で、アジアのトップレベルを超えていくのは重要な課題」とし、「来年、再来年に向けて、自分がどこまで戦えるのかを試すことができればいい」というプランを描いている。
そして、そのプランには続きがある。2年後の東京五輪へとつながる壮大な青写真だ。20年の五輪開催が東京に決まったのは13年9月、戸邉が大学4年時の日本インカレ期間中の朝だった。その頃にはすでに「20年の五輪が、競技者として狙うべき最大の舞台になる」という軸ができ上がっていた。しかも「それが日本で、東京で行われるというのであれば、より大きな意味を持つ。二重の意味でより大切にしたいです」と、胸の奥に抱えた熱い思いがのぞく。
「20年の東京でメダルや入賞を目指すのであれば、来年の世界選手権で決勝に進まないと厳しいですし、来年の世界選手権で決勝に行くならば、今年は2m30以上は跳んでおかないといけない。そんなふうに逆算した長期プランもあります。できれば今年中に日本記録は越えたい。天候も体調も良く、技術的にもまとまって良いかたちが作れれば、自然に無理なく出せる高さだと思っています」
順風満帆ではなかったこの3年を、戸邉は「足踏み」と語る。だが、それを無駄なことだったとは捉えていない。
「その時の僕としては、トレーニングにしても技術的なことにしても、いろいろ試していた時期です。もがいていた苦しさはありましたが、今になって思えば、その試行錯誤から得られたものは多い。それは今後に向けての大きな財産になります。それに、体力的には一昨年、昨年と集中的にやってきましたし、技術的にもいろいろなことを試してきた分、引き出しが増えたので、14年よりも今の方が良い状態が作れているはずです」
やや遠回りをしながらも、自分の信念は曲げずに真摯(しんし)に競技に向き合ってきたからこそ、今がある。再び輝き始めた戸邉の今後に、注目せずにはいられない。
(文:小野哲史)