「サッカーの母国」を変えたベンゲル 感謝と愛に満ちたアーセナルでの最後の日

田嶋コウスケ

ホーム最終戦後、記者会見でのある出来事

ホーム最終戦後に行われた記者会見では、印象的な出来事が起きた 【Getty Images】

 確かに近年は低迷の方が目立ったが、ベンゲルの功績が色あせることはない。最先端のトレーニング理論や選手への食事制限を次々と導入し、イングランドサッカー界を大きく変革したのは日本のメディアでも広く伝えられている。

 英紙『タイムズ』でサッカーの主筆を務めるヘンリー・ウィンター記者は「ベンゲルの到来は、白黒映画がカラーに変わったぐらいの衝撃があった。アーセナルだけでなく、イングランドサッカーの伝統と風習を変えた」と当時のことをつづる。

 敵軍のサポーターからも、そんなベンゲルへのオマージュが伝わってきた。マンチェスター・ユナイテッドの本拠地オールド・トラフォードでは、ライバルとして火花を散らしたアレックス・ファーガソン氏と、ジョゼ・モウリーニョ監督と握手を交わし、記念品が授与された。最終節で対戦したハダーズフィールドのサポーターは、在任期間の22年にちなみ、前半22分にスタンディングオベーションでフランス人をたたえた。行く先々で、ベンゲルはサッカーの母国からの愛情を一身に受けたのだ。

ベンゲルの退任を大々的に伝えた地元紙『ロンドン・イブニング・スタンダード』 【田嶋コウスケ】

 筆者が最も印象に残ったのは、ホーム最終戦後の記者会見だった。ベンゲル監督への質疑応答が終わると、英紙『デーリー・ミラー』でアーセナル番を務めるジョン・クロス記者が、報道陣を代表してスピーチを行った。クロス記者は前職である地元紙『イズリントン・ガゼッタ』で番記者に着任し、ベンゲル監督を常に追ってきたジャーナリストで、ベンゲルに関する著作もある。英国人の彼はベンゲルの前にそっと立ち、事前に用意したメモを読み上げながら語り始めた。

「アーセン、あなたはファンタスティックなサッカーとともに、この国のサッカーを大きく変えてくれました。イングランドサッカー界に身を置くわれわれは、あなたには感謝してもし切れません。退任発表から今まで、あなたには惜しみない感謝と愛情が向けられています。アーセンも、この想いを感じ取ってくれたら、うれしいかぎりです。

 過去数年は批判の声も向けられました。逃げ道もなかったと思います。しかしあなたは、われわれ記者を恨んだり、質問をはぐらかすようなことはしなかった。いつも、人を敬う姿勢で接してくれた。それはひとりの監督として、またひとりの人間として、一流で傑出していました。

 良いときもあれば、悪いときもあった。それすらも懐かしく思うことでしょう。あなたがいなくなって寂しくなります」

英国民の記憶から消えることのない功績

北ロンドンの日常にはアーセナルがあり、その中心にはいつもベンゲルがいた 【Getty Images】

 こう言い終えると、クロス記者は「報道陣からプレゼントがあります」と切り出した。記者団が選んだのはフランス・ボルドー産の赤ワイン。ベンゲルがリーグ無敗優勝を打ち立てた03−04シーズンにかけて、04年産の赤ワインをプレゼントした。今後、打ち破るのは難しいと言われるこの偉大な記録にかけ、クロス記者はウィットに富んだジョークとともに赤ワインを手渡した。

「アーセンなら赤ワインのことはよくご存知でしょう。お口に合うどうか。ちなみに、こちらは04年産のワインです。これなら、どのワインにも負けず“無敗”でしょうから」

 会見場がドッと笑いに包まれると、ベンゲル監督は手を振って会見場を後にした。彼の大きな背中を眺めながら、筆者は「エミレーツ・スタジアムでベンゲルの姿を見るのは、これが最後か」と、ふと思った。在任22年──。北ロンドンの日常にはアーセナルがあり、その中心にはいつもベンゲルがいた。その彼が突然いなくなると思うと、少し不思議な感じがした。

 英紙『タイムズ』によれば、ベンゲル監督は少なくとも現行の契約が切れる来シーズン終了時までアーセナルを指揮したいと考えていたようだ。しかしクラブ首脳陣は、成績不振を理由に「退任か、解任か」の二者択一を迫ったとされる。近年の低迷を思えば、政権交代は遅きに失した感は否めないが、どちらであろうと退任が決まった今、余計な詮索は無用になった。

 退任発表からアーセナルファンはもちろん、英国民はベンゲルに惜しみない賛辞を送った。そして、ホーム最終戦でもプレミアリーグ最終節でも、ベンゲル監督は晴れ晴れとした笑顔を見せた。96年から始まったベンゲルによる「革命」は、こうして18年に終えんの時を迎えた。晩年のベンゲル政権には厳しい声が聞かれたが、それでも彼の功績が英国民の記憶から消え失せることはない。退任発表からのラストデイズで、その考えはいっそう強まったのである。

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著者プロフィール

1976年生まれ。埼玉県さいたま市出身。2001年より英国ロンドン在住。サッカー誌を中心に執筆と翻訳に精を出す。遅ればせながら、インスタグラムを開始

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