1993年 Jリーグが誕生した日<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
博報堂とニッポン放送の合作だった開幕セレモニー
開幕セレモニーで使用したギターを手にする春畑道哉。「25年経った今でも、思い出すたびに幸せな気持ちになります」と当時を振り返る 【宇都宮徹壱】
川淵三郎が2006年に上梓した回顧録『虹を掴む』からの引用である。同書を読んで興味深く感じられたのは、川淵が当初イメージしていた「Jリーグのテーマ(ソング)」は、歌詞の付いたものであったということだ。そうした想いもあってか、ソニー・クリエイティブからTUBEを紹介されたとき、川淵は「歌い方を変えたアカペラの『君が代』を2バージョン、デモテープで送ってほしい」と依頼している。
実際、ボーカルの前田亘輝によるデモテープに、川淵は大変満足したそうだが、同封されていた春畑道哉によるインストゥルメンタルのテープも気に入っていたという。実は開幕セレモニーでは『君が代』以外にも、歌詞のない楽曲も流したいというアイデアを川淵は持っていた。かくしてセレモニーの当日は、前田が『君が代』を歌い、春畑は自身が作曲した『J'S THEME(Jのテーマ)』をギター演奏することが決まる。以下、春畑の回想。
「リハーサルは(5月15日)当日の前にも、ゲネプロ(本番さながらの通しのリハーサル)をやった記憶があります。音楽に合わせて(各クラブの)フラッグを持った人たちが何分間で整列して、それから何秒後にレーザーが空に照らされて、といった演出のタイムスケジュールが、びっくりするくらい綿密だったことを覚えていますね」
開幕セレモニーはニッポン放送と博報堂によって演出・運営が行われた 【(C)J.LEAGUE】
「博報堂としては独占的にやりたかったんだけれど、LF(ニッポン放送)さんがすごく気の利いた動きをされていて、演出に関してはLFさんの担当となりました。ただし、国立競技場を使ったプロスポーツの興行イベントを運営するには、われわれ広告会社のノウハウが必要となってきます。たとえば看板の位置ですとか、演出のタイムテーブルですとか、そういったディテールの部分は、われわれが担当することになりました」
この話には補足が必要だろう。Jリーグ開幕前、ニッポン放送がJリーグのナンバー2だった木之本興三(当時常務理事、故人)と懇意になっていたという話は、以前耳にしたことがある。「すごく気の利いた動き」とは、そういった意味合いも含まれるのだろう。加えて当時は、ニッポン放送を含むフジサンケイグループが今では想像できないくらい影響力を発揮していた。飛行船を飛ばしたり、巨大なJリーグキングを誕生させたりといった演出にも、そうした時代の空気感を読み取ることができる。
演奏者と裏方、それぞれの開幕セレモニー当日
春畑の演奏が終了すると、スモークが炊かれて巨大なJリーグキングが出現 【(C)J.LEAGUE】
「とにかくすごい人たちばかりでした。JFA(日本サッカー協会)の名誉総裁でいらした高円宮殿下、王貞治さん、ペレさん、和田アキ子さんも来られましたね。ご案内する時、そりゃあ緊張しましたよ。ただ、IDを持たないで入ろうとする人も、中にはいたんですよ。『オレはラモス(瑠偉)の友だちだ!』とか言って(苦笑)。そういう時は、身体を張って止めに入りました。ようやく受付が終わってピッチの方に行くと、ちょうどセレモニーが始まっていました」(大野)
セレモニーでの一番の見せ場は、春畑の『J'S Suite(Jの組曲)』のギター演奏とダンサーたちによるパフォーマンスであった。『J'S THEME』が流れる中、半球状の2つのテントが左右から登場して連結。曲が『BORN TO WIN』に切り替わるタイミングでテントの幕が開き、中から春畑と男女8人のダンサーが登場してパフォーマンスが始まる。再び曲が『J'S THEME』に戻り、コーラスとともにオリジナル10の巨大フラッグが次々と入場するという流れであった。
「テントの中で待機している間、ダンサーの人たちと『始まるね、始まるね』とか『動いてる、動いてる』といったおしゃべりをしていました。パンって音がして視界がひらけると、スタンドの360度すべてにお客さんがいるのが見えました。毎年、横浜スタジアムでコンサートをやっていましたが、その何倍もの大観衆でしたね。あんな経験、なかなかできないですよ。Jリーグが誕生した日に演奏させていただき、歴史の1ページに参加できたわけですからね。25年経った今でも、思い出すたびに幸せな気持ちになります」(春畑)
10分に及んだ春畑の演奏が終了すると、スモークが炊かれて巨大なJリーグキングが出現。さらに、川淵チェアマンの開会宣言、ヴェルディ川崎と横浜マリノス(いずれも当時)の選手入場、国旗掲揚とTUBEの前田による『君が代』斉唱と続く。一連の流れを大野も感慨深く眺めていたが、上空に花火が打ち上がってカウントダウンが始まった瞬間、アクシデントが発覚する。
「今はないですけれど、当時はコーナーだけでなくハーフラインの両脇にもフラッグを立てていたんですよね。演出の都合で抜いてあったんですが、それが元に戻ってない状態でカウントダウンが始まったんです。先輩から『すぐに刺してこい!』と言われて猛ダッシュですよ(笑)。ようやく元に戻して、無事にキックオフを迎えることとなりました」(大野)
当時の映像をあらためて確認すると、キックオフの瞬間を待つ横浜の木村和司の遠景でフラッグを刺している、当時25歳の大野の姿を見つけることができた。