1993年 Jリーグが誕生した日<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「5.15」の開幕セレモニーに立ち会った2人の青年

今から25年前の1993年5月15日、Jリーグの歴史はここから始まった 【(C)J.LEAGUE】

「あれは100パーセントに近い満足度だったね。Jリーグの興奮と感動といったものを簡潔に30分でまとめてくれた。あれを見たFIFA(国際サッカー連盟)の人たちも、みんな褒めてくれたんだ。あのペレも『こんな感動的なセレモニーは見たことがない』と言って、涙を流しながら僕にハグしてくれたよ。へえ、あのペレも泣くんだって思った(笑)。それくらい完成度の高いセレモニーだったね」

 初代Jリーグチェアマン、川淵三郎が「100パーセントに近い満足度だった」と回想するのは、今から25年前に行われたJリーグ開幕セレモニーである。Jリーグの歴史は1993年5月15日19時29分、ヴェルディ川崎対横浜マリノス(いずれも当時)による開幕戦を起点としている。その30分前に5万9626人が見守る中、当時としては異例とも言える華やかなセレモニーが行われた。巨大なJリーグキング(当時は「J−boy」とも呼ばれていた)のバルーンが、むくむくと立ち上がる映像は、当時のJリーグブームを象徴するシーンとして、往時を知らぬ世代でも一度は目にしたことだろう。

Jリーグ開幕は、「新しいプロスポーツが始まる」期待感のみならず、バブル経済が崩壊した直後の光芒を体現するものでもあった 【(C)J.LEAGUE】

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第16回となる今回は、いよいよ「Jリーグ元年」である93年(平成5年)をピックアップする。サッカーファンにとってこの年は、2つの大きな出来事が深く記憶に刻まれている。1つは10月28日の「ドーハの悲劇」であり、もう1つがJリーグ開幕。この明暗のコントラストによって、日本サッカー勃興期の記憶は際立ったものとなっている。とりわけ、今はなき旧国立競技場で行われたセレモニーは、単に「新しいプロスポーツが始まる」という期待感のみならず、バブル経済が崩壊した直後の光芒(こうぼう)を体現するものでもあった。

 今回は「Jリーグ元年」の象徴とも言える、開幕戦直前に行われた30分間のセレモニーに着目した。冒頭では川淵のコメントを紹介したが、今回フォーカスするのは、この開幕セレモニーに立ち会うこととなった、当時20代半ばの青年だった2人の人物。ただし両者の立ち位置は大きく異なる。1人は、日本を代表する人気ロックバンドTUBEのギタリストである春畑道哉。そしてもう1人は、大手広告会社の博報堂に入社して3年目の大野淳。Jリーグが誕生した日、前者はスポットライトを浴びる存在であり、後者は完全なる裏方であった。

Jリーグのスタートアップに貢献した博報堂

現在、博報堂DYメディアパートナーズで部長を務める大野淳は、学生時代にスポーツビジネスを志し、歴史的な現場には居合わせることになる 【宇都宮徹壱】

「91年に博報堂に入社して、最初に配属されたのはスポーツ事業局という部署でした。スポーツマーケティングがだんだん大きくなってきて、ちょうど局になるタイミングでしたね。最初の仕事は、川淵さんがJリーグのロゴを披露する記者会見。まあ、新人には仕事というレベルのことはできなかったですが(苦笑)、歴史的な現場には居合わせることができました」

 博報堂DYメディアパートナーズのスポーツビジネス局で部長を務める大野は、入社当時の記憶をこのように語る。同社では珍しい、順天堂大学の出身。高校時代は「選手権まであと一歩」のところで夢を絶たれ、順大でもサッカーを続けようと思ったら試合にはまったく出場できず。仕方なく、学連(関東大学サッカー連盟)で大会運営や広告取りなどの裏方業務に回る。ここで自身の適性を見いだした大野は、広告会社という職種があることを知った。このころ、「JSL(日本サッカーリーグ)がプロ化に向けて動いている」といううわさは、すでに耳に入っていた。プロ化と広告会社。両者が頭の中で結びついた瞬間、大野の進むべき道は決まった。

「いろいろ調べていくと、業界ナンバーワンが電通で、その次に博報堂というのがあると。このどちらかに入れば、日本サッカー界に貢献できるんじゃないかと思いました。結局、(就職試験は)電通がダメで博報堂は受かったんですけれど、大学のOBがいなかったので苦労しましたね。志望動機を聞かれたら、『日本サッカーのプロ化に関わりたい』と繰り返し答えていました。ウチは営業しか採らないと言われても、『僕はスポーツしかできません』(苦笑)。そう言い続けたら、希望が通りました」

 周知のとおり、Jリーグのスタートアップに大きく貢献したのは博報堂であった。きっかけは84年に手掛けた、釜本邦茂のヌードをフィーチャーしたJSLのポスター。その突破口を開いたのが、岡本純という営業マンであった。JSLの総務主事だった川淵が、密かに温めていた「プロ化構想」に積極的に食いついていったのも、この人物。当時、トヨタカップやキリンカップなどのJFA(日本サッカー協会)案件は、電通の独占状態にあったが、川淵の「プロ化構想」には見向きもしなかった。そんな中、岡本は社内の同期に横断的に声をかけて、プロ化推進の組織作りに必要な資料作りを手伝ってもらったという。

「規約、人事、総務、経理。要はガバナンス的な部分のノウハウを、ほぼ無償で提供し続けることで、Jリーグの組織を作ってきたんですよね。もちろん、それがビジネスになるかどうか分からない。よく会社として許したと思うんですけれど、そういう時代だったんでしょうね(笑)。僕が入社して1年くらいすると、スポンサーシステムをリーグが一括して行うことになって、それで初めて『その権利を博報堂にいただけますでしょうか』という話になりました。やがてJリーグは、とんでもないビジネスに発展していくわけです」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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