サポーターと紡いだJリーグ20年の歴史=激動の時代を乗り越え、成熟した安定期に
ほぼ2年ごとに変わった順位決定方法
Jリーグ開幕から20年。1993年5月15日に日本サッカーの歴史が動いた 【Jリーグフォト(株)】
この20年間を概観すると、最初の10年間が激動の時代だったことが分かる。順位決定方法(勝ち点システム)は、最初の10年間、ほぼ2年ごとに変わった。
1993年にJリーグがスタートしたときには、大きな特徴というより、世界のサッカーリーグと比較すると大きく違う「特殊ルール」があった。「延長Vゴール制(名称誕生は94年)」と「PK戦」は、引き分けで終わるのではなく、それぞれの試合にあくまで決着をつけることでファンを引きつけようという考え方から生まれた。
93年と94年には、単純にこうした形での勝ち数で順位が決められた。90分で勝っても、延長Vゴールで勝っても、PK戦で勝っても、同じ「1勝」だったのだ。「勝利3、PK負け1」という勝ち点制度が導入されたのが95年。2年後の97年にPK戦が廃止され、勝ち点制度は「90分間での勝利3、延長戦での勝利2、引き分け1」となった。そしてJリーグ10年を迎えた2003年に延長戦が廃止され、以後は「勝利3、引き分け1」という現在と同じ勝ち点制度となった。
「2ステージ制」誕生の背景には、わずか10クラブでのスタートという事情があった。ホーム&アウエーのリーグ戦では18節にしかならない。だからホーム&アウエーの総当たり2回戦で1ステージの優勝を決め、それを2回やって両ステージの優勝チーム同士でチャンピオンシップを行うという「2ステージ制」が生まれたのだ。
しかしJリーグは2年目には12クラブ、3年目には14クラブ、4年目の96年には16クラブへと急激に拡大した。14クラブでの95年は、1ステージが26節、年間で52節にもなった。16クラブで同じ方法を採用すると、1ステージ30節、年間で60節にもなる。いくらなんでもそれは不可能なので、96年には1ステージ制を採用せざるをえなかった。97年には1ステージを1回戦制(すなわちホームまたはアウエーで全クラブと対戦)とする2ステージ制が始まり、それは2004年まで続けられた。
開幕から7シーズン目に早くもJ2が誕生
開幕から7シーズン目に早くもJ2が誕生。J1昇格を目指し、し烈な戦いが毎シーズン繰り広げられている 【写真は共同】
スタート時の熱狂は数年で去り、1試合平均観客数は下降線をたどったが、Jリーグに加盟を希望する団体や地域は増える一方だった。単にプロとして営業するだけでなく、それぞれのホームタウンに立脚して活動し、ホームタウンに有形無形の利益をもたらすJリーグクラブの姿への共感が生んだものだった。1993年にスタートしてわずか6シーズンを経過しただけで、7シーズン目に早くもセカンドディビジョンが誕生したのは、スタート時には予想もできないことだった。そしてその成長は止まることなく、現在に至っている。
1999年にはJ1が16クラブ、J2が10クラブの計26クラブだった(前年の18クラブから26クラブに増やすに当たって「無謀な拡張」という批判が少なくなかった)。14年後の現在、2013年には、J1が18クラブ、J2が22クラブの計40クラブ。2014年には「J3」が誕生する見通しだ。
日本中の生活地域ごとに「ホームクラブ」を生み、地域生活の向上に貢献することはJリーグの理念のひとつでもある。「クラブが増えたらプロとして成り立たなくなる」という「日本プロスポーツの常識」を、理念の実現に向けて勇気をもって覆したこと、プロスポーツを楽しむことができるのは大都市だけでないことを示したのは、Jリーグの大きな勝利に違いない。
社会問題となったフリューゲルス消滅
20年間で最大の痛恨事は横浜フリューゲルスの消滅。サポーターは最後まで存続を訴えた 【Jリーグフォト(株)】
1998年10月に明らかになり、その後サポーターによる「フリューゲルス存続活動」で大きな社会問題にまでなった合併劇。結局、フリューゲルスの消滅を食い止めることはできなかったが、この事件を通じて、「Jリーグのクラブをなくすことはできない」という意識が、クラブ経営サイドだけではなく、クラブをもつ地域の人びとや自治体にも広がったのではないか。
1993年以来、Jリーグに籍を置いたクラブは、現在までに42。そのうち昨年J2に在籍して、今年はJFLでプレーする町田ゼルビアが史上初の「Jリーグ外への降格」という形になったが、消滅したのは横浜フリューゲルスただ1クラブ。企業がかかえるスポーツチームが、競技にかかわらず次々と消滅したこの20年、クラブが消えることなく増えていく一方のJリーグは「奇跡」の存在と言っていい。
フリューゲルスを消滅させてしまったのは、Jリーグにとって癒えることのない痛みに違いない。しかし「クラブ消滅」に向き合ったときのサポーターの反応、それが起こした化学変化のような爆発的な反応の広がりは、Jリーグの「生命線」というべきものだった。
「住み心地」が改善されたスタジアム
日韓W杯開催を機にスタジアムの整備が進み、いまも多くのクラブがその恩恵を受けている 【Jリーグフォト(株)】
W杯スタジアムだけではない。鳥取市営サッカー場(とりぎんバードスタジアム=1995年)、鳥栖スタジアム(ベストアメニティスタジアム、1996年)、仙台スタジアム(ユアテックスタジアム、1997年)、松本平広域公園総合球技場(2001年)、東京スタジアム(味の素スタジアム、2001年)、豊田スタジアム(2001年)、フクダ電子アリーナ(2005年)と、「Jリーグ時代のスタジアム」が次々と生まれ、従来からのスタジアムも改修などを重ねて「住み心地」が大幅に改善されている。
その多くは、それぞれのクラブのホームタウンが巨額の予算を組んで建設あるいは大改修してくれたもの。クラブはそれを見事に生きたものとしている。