パラ初出場のアイスホッケー・熊谷昌治 ソチ不参加の悔しさを糧にエースへ成長

荒木美晴

韓国に敗戦も「次につながる大きな1点」

パラリンピック初出場となるパラアイスホッケー日本代表の熊谷昌治(左) 【写真は共同】

 パラアイスホッケー日本代表が8年越しに挑んだ夢舞台の初戦は、ほろ苦い結果に終わった。平昌パラリンピックのアイスホッケー日本代表は10日、1次リーグ初戦で韓国と対戦し、1−4で敗れた。序盤は日本が強化してきた守備が機能し、格上の韓国を苦しめたが、終盤に連続失点してゲームオーバー。会場の空気も完全アウェーだったが、その中で何度も「ニッポン!」コールが響き渡り、日本選手の背中を押した。

 選手の家族や友人たちを含め、多くの日本人が会場に足を運んでいた。日本のエース・熊谷昌治(アディダス)は、自身がターンオーバーを許した場面もあり、敗戦に悔しさをにじませながらも、こう話した。
「こんな大舞台で戦えるのは本当に幸せ。僕の人生にとっても大きな財産になると思います」

 終盤の日本の1点は、ゴール裏から熊谷がすくい上げたパックが上原大祐(日本電気)、そして高橋和広(西東京市役所)につながった。フォワードとしては自分が得点を取ることを使命と感じ、「がむしゃらにやってきた」が、ここ1年間はずっと“攻撃の起点”となるプレーも意識してきた。理想の形で決めたこの得点は上原とともに熊谷もアシストが記録され、「次につながる大きな1点です」と胸を張った。

競技を始めて3カ月で日本代表に

初戦となった韓国戦では高橋和広(55番)が日本唯一の得点を決めた 【写真は共同】

 熊谷にとって、平昌が初めてのパラリンピック出場となる。

 33歳だった2008年8月、熊谷はバイクで国道を走行中に対向の右折車に跳ね飛ばされ、右脚のひざから下を切断した。失意の中、義足のハイジャンパー・鈴木徹の講演会を聴いたことがきっかけでパラスポーツと出会い、車いすバスケットボールや陸上などに取り組むようになった。

 パラアイスホッケーを始めたのは、日本が銀メダルを獲得した10年のバンクーバー大会後だ。「一緒に世界を目指さないか?」。そう熊谷に声をかけたのが、1998年長野大会から日本代表の主力選手として活躍する吉川守(中部電力)だった。吉川にわたされた輝く銀メダルの向こうに“世界”が見えて、大きな刺激を受けた。

 吉川と同じ長野サンダーバーズで練習を始めた熊谷。ほかのメンバーはスイスイと氷の上を滑っているが、熊谷はバランスが取れず転んでばかり。それでも、吉川がマンツーマンでスケーティングの基礎を教えると、もともとの運動神経の良さもあり、一気に成長の階段を駆け上がっていった。

 競技を始めてからわずか3カ月で日本代表になった。12年には世界選手権(ノルウェー・ハーマル)に初出場したが、出場機会は結果が出た後の試合で、アイスタイムもごくわずかだった。その悔しさを晴らし、また世界との力の差を埋めるべく、帰国後はひたすら練習に励んだ。磨きをかけたスピードを生かしたシュート力は日本チームの武器となり、ファーストセットに名を連ねるまでになった。

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著者プロフィール

1998年長野パラリンピックで観戦したアイススレッジホッケーの迫力に「ズキュン!」と心を打ち抜かれ、追っかけをスタート。以来、障害者スポーツ全般の魅力に取り付かれ、国内外の大会を取材している。日本における障スポ競技の普及を願いつつマイペースに活動中

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