2004年 最後にして最大のCS<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

04年で役割を終えたCSというシステム

GK榎本(右)が闘莉王と長谷部のシュートを防ぎ、横浜FMがタイトルを獲得した 【(C)J.LEAGUE】

 最後にして最大のCSは、PK戦に勝敗が委ねられることとなる。先行の浦和は、エメルソンの退場が明らかな誤算となった。代わってファーストキッカーに選ばれたのは闘莉王。「一番の得点源が不在となったのは、確かに痛かったですね。でもエメルソンだって、失敗する可能性はありました。闘莉王もPKがうまい選手です。起こってしまったことは変えられないと割り切って、自ら志願した彼を最初のキッカーに選びました」とブッフバルト。しかし闘莉王のシュートは、榎本達也のセーブに阻まれてしまう。一方、横浜FMのキッカーはセットプレーを任されているキャプテンの奥大介。山岸範宏の逆を突いて冷静に決める。

 その後は、浦和の三都主とネネ、横浜FMの上野良治と坂田大輔が、いずれも成功。浦和の4人目は、20歳の長谷部誠であった。指揮官いわく「勝者のメンタリティーを持っていたので指名した」そうだが、榎本に完全に読まれて失敗。続く横浜FMの4人目ドゥトラが、山岸のタイミングを外すようにゴール右隅に流し込む。次の瞬間、PK戦を4−2で制した横浜FMの2連覇が決定。PK戦に敗れた浦和は、年間総合順位で1位に立ちながら、クラブ史上初のタイトル獲得には至らなかった。あれから13年が経った今でも、この結果にブッフバルトは納得できていない。

PK戦で敗れたことについて、ブッフバルトは「受け入れ難いものがあった」と振り返る 【宇都宮徹壱】

「この年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)でも、ウチはFC東京にPK戦で敗れましたが、あれはカップ戦だったのでまだ納得できました。でも、リーグ戦はシーズンを通した戦いであり、そこでわれわれは最も多くの勝ち点を獲得したのです。にもかかわらず、なぜさらに2試合を行い、しかもPK戦の結果でタイトルの行方が決まってしまうのか。そういうルールなのは頭で理解していても、やはり受け入れ難いものがありましたね」

 勝者である岡田もまた、このCSは決して会心の勝利というわけではなかった。「自分もチームも、03年の完全優勝がピーク。04年はすでに下降線にあったけれど、何とかごまかして勝った感じ」と正直に語った上で、CSというシステムをこう総括する。

「盛り上がりという意味では、CSというシステムは悪くなかったんじゃないかな。それまでは『シーズンを2つに分けるのはおかしい』と思っていたけれど、あれだけ試合は盛り上がったし、お客さんも入ってテレビの視聴率もけっこうあったでしょ? やってみたら『バカにできないな』と思いましたよ。まあ、勝ったから言えるんだろうけど(笑)。ただしチャンピオンは、1シーズンできちっと決めるべきものだと思っているけれどね」

 かくして横浜FMの優勝でもって、最後にして最大のCSは幕を閉じた。そして05年からJ1リーグは1ステージ制となり、年間を通して最も多くの勝ち点を得たチームが優勝するという、世界のスタンダードが定着するようになる。プロ野球の日本シリーズをアレンジしたような、いかにもビギナーが好みそうなCSというシステムは、こうしてその役割を終えることとなった。

11年後に復活し、再び「最後」となったCSは

浦和は2年後の06年にリーグ初制覇を成し遂げた 【(C)J.LEAGUE】

 04年のCSを戦った、2人の指揮官の「その後」についても語ってもらおう。ブッフバルトが率いる浦和は、05年に天皇杯で優勝。そして06年は悲願のリーグ優勝と天皇杯連覇を果たし、見事に2冠を達成した。06年のリーグ初制覇について「04年のリベンジが果たされたのでは?」と当人に尋ねると、大きく手を振りながら言下に否定されてしまった。

「その意見は当たらないですね。なぜなら04年の時点で、すでに浦和は最も強いチームだったから(笑)。その考えは今も変わらない。06年の優勝は、04年の経験を生かしたものではなく、単にチームが成長したからだと思っています。ワシントンやロブソン・ポンテも加入したし、長谷部も2年分のキャリアを積んでいました。もちろん、私自身もそう。チームとして大きく成長した結果が、06年の2冠だったと思っています」

岡田は06年8月末に辞任、07年に再び日本代表監督に就任した 【(C)J.LEAGUE】

 一方の岡田は、下降線にあったチームを立て直すには至らなかった。05年は、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)やA3チャンピオンズカップの過密日程にもたたられ、リーグ戦は9位に低迷。W杯イヤーの06年は、いったん現場を離れて解説者となることも考えたが、負けず嫌いの性格から引き続き指揮を執ることを決断する。しかし成績は上向くことなく、また家族の不幸も重なって8月末で辞任。当時の心境をこう回想する。

「あの時、自分でファイティングポーズが取れなくなって、はっきり言って逃げてしまったよね。そこからは、自分の限界を乗り越えるにはどうすればいいんだろうと、ありとあらゆる勉強をした。心理学から経営学から気功に至るまで、自分にプラスになると思ったら何でも貪欲に取り入れようと必死だった。だからその時期は、サッカーをあまり見ていなかったんだよね(苦笑)」

 07年の晩秋、日本代表監督だったイビチャ・オシムが病に倒れる。たまたまフリーとなっていた岡田に、日本サッカー協会(JFA)の技術委員会が監督就任要請をしたのは当然の成り行きであった。その後の岡田の輝かしい業績と数奇なキャリアについては、ここで多くを語るまでもないだろう。

本当に「最後」となった16年のCSで、浦和は鹿島に敗れた 【(C)J.LEAGUE】

 もっとも、より数奇な運命をたどったのは、この04年で「最後」となるはずだったCSであった。Jリーグの収益とメディア露出を増加させるべく、11年後の15年にCSは形を代えて復活。しかしDAZN(ダ・ゾーン)との契約で収益のめどが立ったことで、復活版CSはわずか2シーズンで終了となってしまう。本当に「最後」となった16年のCSで、年間通算成績で1位だった浦和が3位の鹿島アントラーズに敗れてしまったのは、まさに歴史の皮肉であった。浦和にとってのCSは、最後の最後まで「鬼門」であり続けたのである。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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