2015年 喫茶店から生まれたJ1クラブ シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「アルウィンを満員にしたい」という原風景

取締役を務める八木には「あの風景をいつかアルウィンでも」という、明確なイメージがある 【宇都宮徹壱】

 松本の前身となる山雅クラブは、75年からスタートした北信越リーグに参加。以来、JFL昇格を決める09年まで、実に35シーズンにわたり一度も長野県リーグに降格することなく、地域リーグで息の長い活動を続けてきた。そんな山雅クラブに大きな変化をもたらすことになったのが、01年に完成した球技専用施設のアルウィン(正式名は長野県松本平広域公園総合球技場)の存在だった。取締役の八木は語る。

「アルウィンは、02年のワールドカップでパラグアイ代表のキャンプ地となりましたが、大会後の有効活用は地域にとっての課題になっていたんですね。そこで青年会議所の有志が集まって、04年9月にASP(アルウィン・スポーツ・プロジェクト)というNPO法人が発足します。数少ないサッカー経験者ということで、私も加わることになりました」

 05年、山雅クラブは松本山雅FCとクラブ名を変更し、Jリーグを目指すことを高らかに宣言する。もっともASPは、最初から「山雅クラブのプロ化」を目指していたわけではない。八木いわく「要はアルウィンをいっぱいにするのが目的でした」。逆に言えば、ASPが組む相手は山雅一択ではなかったのである。

「われわれが声をかけたのが、北信越リーグの山雅クラブとアンテロープ塩尻。より積極的だったのは山雅のほうでしたね。個人的な思い出で言うと、高校時代によく山雅と練習試合をやったんです。うまくて強かったから、かなり上から目線な印象でした(苦笑)。それでも山雅と試合ができるのは、すごく勉強になりましたし、楽しみでもありましたね」

 ASPと山雅クラブとの邂逅(かいこう)こそ、その後の松本のサクセスストーリーの起点となった。ここで留意したいのが「アルウィンのスタンドがいっぱいになれば、いずれはJリーグに到達できる」というASPの当初からの目的意識がブレなかったことだ。つまり「昇格ありき」ではなく「集客ありき」。実は八木には「あの風景をいつかアルウィンでも」という、明確なイメージがあった。それは20年ほど前に駒場運動公園競技場(現浦和駒場スタジアム)で見た、浦和レッズのホームゲームである。

「照明塔の明かりがついて、選手たちがアップを始めると、バッと応援の旗が上がって『浦和レッズ!』というコールが一斉に起こるわけですよ。気がついたらスタンドが赤一色になっている。私を誘ってくれた方が『ここは日本で唯一、ヨーロッパを体感できる場所なんだ』とおっしゃっていましたが、納得です。アルウィンを満員にしたいというイメージは、まさにあの時の駒場で見た原風景がベースにありました」

クラブ設立年「1965」は喫茶店開業の年だった

かつての喫茶山雅を知る貴重な証言者である山下。今でも、アルウィンでの試合には頻繁に足を運んでいる 【宇都宮徹壱】

「アルウィンで試合がある日は、よっぽどの用事がない限り、行くようにしています。ただ、サポーターの皆さんが『山雅!』ってコールするときは、何だか自分の名前を呼ばれているようで、うれしいような照れくさいような、ちょっと複雑な気持ちになりますね。私たちの手から離れた山雅が、こんなにも立派に成長して活躍しているわけですから」

 山下慶子は、今年68歳。かつての喫茶山雅を知る、貴重な証言者である。父親の山下忠一が、今でいう“脱サラ”をして65年に喫茶店経営を始めたのは「登山やスキーをする仲間たちの居場所を作りたかったから」。「山雅」という名前も、山好きが集まる店という意味が込められており、内装も山小屋をイメージしたものであったという。店の常連は、忠一を「お父ちゃん」、慶子を「お慶ちゃん」と呼んでいたそうだ。やがて開店から2年が経ったある日、常連客の間で「サッカーをやろう」という話が持ち上がる。

「スキーや登山以外でも、皆で何かスポーツをやりたいね、という話だったと思います。当時は野球が盛んでしたけれど、バットやグローブにはお金がかかるから、ボールひとつでできるサッカーにしようと。高校でサッカーをやっていた方が2人くらいいらして、見よう見まねで始めた感じでしたね。メンバーがそろわない時は、当時40代半ばだった父も試合に駆り出されていました(笑)」

 喫茶店の常連たちが作った素人サッカーチームは、やがて「より高いレベルでプレーする」ことを目指し、75年に北信越リーグのオリジナルメンバーとなる。それから3年後に喫茶山雅が閉店となったことで、「山雅」の名を冠したクラブは山下家の人々の手から徐々に離れていった。それでも、山雅クラブのその後にまったく無関心だったわけではない。11年12月、松本のJ2昇格を知らされたときの父・忠一の様子について、慶子は「寝たきりで目も見えない状態でしたけれど、一言『そうか』と言って、涙を流していましたね」と回想する。「お父ちゃん」こと忠一は、翌12年7月に死去。享年91歳であった。

 さて、ここまで読んでお気づきのとおり、松本がクラブ設立年としている「1965年」とは、実はサッカーの活動を始めた年ではなく「喫茶山雅が開店した年」である。では、15年の50周年記念は、果たして「無効」なのだろうか? 私はそうは思わない。たとえばドイツのTSV1860ミュンヘンは、設立年を1860年としているが、もともとは体操のクラブであり、サッカー部門が始まったのはそれから39年後。クラブの設立年は、必ずしも「サッカーの活動を始めた年」とは限らない。むしろサッカーを始める以前、登山やスキーの同好が集まった喫茶山雅は、広義の意味で「クラブ」であったと言えよう。

 喫茶山雅という、同好の「クラブ」がなければ、その後の松本山雅FCはあり得なかった。それにしても、と私は思う。喫茶店で産声を挙げた素人サッカーチームが、半世紀の時を経て日本のトップリーグに上り詰める──。何と夢のある話ではないか。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

宇都宮徹壱

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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