歴史に翻弄されたロシアの古都 コンフェデ杯都市探訪<サンクトペテルブルク篇>

宇都宮徹壱

「ヨーロッパに近い」決勝の舞台・サンクトペテルブルク

サンクトペテルブルクの名所のひとつ、イサク聖堂。白夜の季節なので午前0時でこの明るさ 【宇都宮徹壱】

 ソチからモスクワを経由して、サンクトペテルブルクのプルコヴォ空港に到着した時、すでに時刻は20時を過ぎていた。本当はもっと早くに着いて観光でもしようと思っていたのだが、ドモジェドヴォ空港でまたしても謎の遅延に遭い、結局4時間も機内で待たされる羽目に。どうもロシアの国内線は、こうしたアクシデントが少なくないようだ。着いて早々、薄手のダウンジャケットが必要なほど肌寒いことに気づく。ソチを出るときの気温は27度だったが、サンクトペテルブルクは13度。あいにく上着は預け荷物の中なので、しばらくは薄着で震えながら荷物が出てくるのを待つことになった。

 ようやくピックアップしたトランクには「LED」と書かれたタグが付いていた。空港コードはアルファベット3文字で記されるが(成田空港だったら「NRT」)、サンクトペテルブルクの空港がLから始まるのはレニングラード時代の名残である。かのピョートル大帝がこの都市を建設した時、ドイツ風にサンクトペテルブルクと命名された。そのドイツが第一次世界大戦で敵国となるとロシア風のペトログラードとなり、ロシア革命後にはレーニンの名を冠してレニングラードとなり、そしてソビエト連邦が崩壊すると再びサンクトペテルブルクに戻された。これほど歴史に翻弄(ほんろう)されながら名前を変えた都市も珍しい。

 サンクトペテルブルクは1713年から1922年までロシアの首都であった。革命政府がモスクワへの遷都を敢行したのは、当時のペトログラードが欧州諸国から近く、他国から干渉されることを恐れたためとされる(フィンランドの首都のヘルシンキとは約300キロしか離れていない)。地理的な近さに加えて、帝政ロシア時代の建造物もかなり残されているため、サンクトペテルブルクはロシアのどの都市よりもヨーロッパの風景に近い。人口は約500万人。約1200万人のモスクワに次ぐ第二の都市である。

 さて、6月17日に開幕したFIFAコンフェデレーションズカップ・ロシア2017(以下、コンフェデ杯)は、いよいよ現地時間7月2日の日曜日にフィナーレを迎えることとなった。この日、モスクワのスパルタク・スタジアムにて15時キックオフで行われたポルトガルとメキシコによる3位決定戦は、延長戦の末にポルトガルが2−1で勝利。そして21時からはサンクトペテルブルク・スタジアム(クレストフスキー・スタジアム)で、ドイツとチリによる決勝戦が行われる。最高の舞台、そして最高の顔合わせ。日本代表が不在の今大会であったが、思い切って現地に来て本当に良かったと、あらためて思う次第だ。

黒川紀章の遺作となったクレストフスキー・スタジアム

クレストフスキー・スタジアムの別名は「宇宙船」。ライトアップされて、その理由に納得 【宇都宮徹壱】

 サンクトペテルブルクといえば、エルミタージュ美術館やイサク聖堂など、観光スポットには事欠かない。だが個人的に最も楽しみにしていたのが、決勝の舞台となるクレストフスキー・スタジアムであった。今から8年前の09年、私はゼニト・サンクトペテルブルクの取材で初めて当地を訪れたのだが、この時は新スタジアムは影も形もなかったからだ。ワールドカップ(W杯)ロシア大会の開催が決まったのは10年だが、ゼニトが新スタジアムを作る話はそれ以前からあって、着工したのは07年。実は「09年3月には完成する」というのが、当初のスケジュールであった。

 ところが完成予定は何度も延期され、着工から約10年後の16年12月になってようやく完成にこぎ着けることとなった。このスタジアムの設計者は、日本が世界に誇る建築家・黒川紀章。黒川は07年10月12日に73歳で死去したため、残念ながら完成した自身の作品を見ることはなかった。よって、このクレストフスキー・スタジアムは、彼にとっての「遺作」となっている。黒川といえば、われわれサッカーファンには大分銀行ドーム、そして豊田スタジアムの設計者として知られている。完成したクレストフスキー・スタジアムの外観を見ると、なるほど確かに屋根に突き出した「角」をはじめとして、デザイン的には豊田スタジアムとの類似性をいくつか発見することができる。

 しかし一方で、当然ながら違いもある。その最たるものが、屋根。大分にしても豊田にしても、「開閉式の屋根」というものがセールスポイントであった。ところが実際に完成してみると、両スタジアムともうまく作動しなかったり、メンテナンスに費用がかかったり、要するに「開閉式の屋根」が成功したとは言い難い状況になってしまった。さすがの巨匠も反省したのか、クレストフスキー・スタジアムは固定式の屋根となっている。また、W杯会場としてはモスクワのルジニキ・スタジアム(8万1000人)に次ぐ6万8000人というキャパシティーも、黒川にとっては大いなるチャレンジだったはず。結果として、観戦者にとって非常に快適な空間作りに成功している。

 アクセスについても説明しておこう。その名のとおり、スタジアムはクレストフスキー島にあり、メトロとバスを乗り継いでから30分くらい森の中を歩き続けることになる。特に帰りの足が心配だが、取材後に観客の流れに沿って歩いてみると、地下鉄駅に向かうシャトルバスが運行していた。私が乗ったバスはメトロ1号線のヴィボルグスカヤ(Vyborgoskaya)駅行きだったが、ペトログラードスカヤ(Petrogadskaya)駅をはじめ、いくつかのメトロ駅とスタジアムをつなぐシャトルバスが出ている。ちなみに試合の帰路は、バスも地下鉄も無料。荷物チェックもなかったのは、ちょっと意外であった。シャトルバスは頻繁に出ていたので、さほどストレスを感じずに帰路につくことができるだろう。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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