2000年 ネットメディア勃興期<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

日本のスポーツ界に衝撃を与えた、広瀬一郎の死

広瀬一郎という人物は、わが国のスポーツビジネスにおけるパイオニアのひとりだった 【宇都宮徹壱】

 ゴールデンウイーク真っただ中の今年5月2日、ひとりの男の死をめぐる衝撃が日本のスポーツ業界を駆け巡った。故人の名は広瀬一郎、享年61歳。最後の肩書は「スポーツ総合研究所株式会社所長」だが、「元電通」という方が通りはいいだろう。株式会社電通勤務時代(1980〜2000年)、広瀬はスポーツ、とりわけトヨタカップやワールドカップ(W杯)といった大会のプロデュースを数多く手掛けている。ただし広瀬が最も強みを発揮し、よくも悪くも話題となったのが、電通という枠を飛び出した時の壮大なチャレンジであった。

 まず、電通からW杯招致委員会事務局に出向した時の02年W杯日本招致活動(94〜96年)。次に、電通を退社した直後の株式会社スポーツ・ナビゲーション設立(00年)。そして最近では、出身地である静岡県の知事選にも立候補して話題になった(13年)。今にして思えば、そのいずれもが壮大かつ破天荒な挑戦であった。

 では、挑戦の結果はどうなったか? 02年W杯は最後までデッドヒートを繰り広げた韓国との共催という、関係者の誰もが予想しない形での決着となった(単独開催を目指していた日本にとっては、負けに等しい結果であった)。スポーツ・ナビゲーションは会社として2年しか存続せず、その後はヤフー傘下のワイズ・スポーツ株式会社となった(COO=最高執行責任者だった広瀬は経営責任を問われる形で退社)。そして知事選は、現職候補にダブルスコアならぬトリプルスコアで惨敗している。

 広瀬一郎という人物は、わが国のスポーツビジネスにおけるパイオニアのひとりであり、彼が立ち上げたSMS(スポーツマネジメントスクール)からは、多くの人材が国内外のスポーツ業界の第一線で活躍している。しかしその一方で、広瀬は途方もない夢を描いて果敢に挑戦し、その夢に敗れ続けてきた人でもあった。それでも彼のチャレンジが、その後、多くのフォロワーやムーブメントを起こしたことは特筆すべきことであろう。とりわけ顕著だったと個人的に考えるのが、00年の『スポーツナビ』立ち上げである。

 今でこそ私たちは、インターネットでスポーツの情報を摂取する生活が当たり前となっている(Jリーグの中継もネットなしには楽しめない時代となった)。しかし少なくとも00年当時、スポーツメディアの中心は新聞と雑誌とテレビであり、勃興期にあったネットメディアは海のものとも山のものともつかない、極めて脆弱(ぜいじゃく)な存在でしかなかった。そうした状況に風穴を空けたのが、広瀬が立ち上げたスポーツナビであり、少し先行してリクルートがスタートさせていた『ISIZE SPORTS』(以下、イサイズ)であった。

広瀬一郎、スポーツ・ナビゲーションを立ち上げる

2000年、J1リーグでは鹿島アントラーズが総合優勝、中村俊輔(写真)がMVP、そして中山雅史が得点王に輝く 【(C)J.LEAGUE】

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第5回は、2000年(平成12年)をピックアップする。新しいミレニアムに多くの人々が期待感を迎えたこの年、J1リーグでは鹿島アントラーズが総合優勝、中村俊輔(横浜F・マリノス)がMVP、そして中山雅史(ジュビロ磐田/いずれも当時)が得点王に輝いた。しかし本稿では、ピッチ上のドラマから少し距離を置いて、この年に顕著となったネットメディアの勃興について、当時の関係者の証言からひもといていくことにしたい。

 元スポーツ・ナビゲーションの取締役で、現在はヤフー株式会社の上級執行役員、コーポレートグループ長の肩書を持つ本間浩輔。当時、野村総研に勤務していた本間が、広瀬に呼び出されたのは99年の年末のことであった。両者の出会いは98年、本間が筑波大学の大学院でスポーツビジネスの研究をしていた時、学会のゲストスピーカーに広瀬を呼んだことがきっかけである。本間は「あの日」のことを、日付も含めて正確に記憶していた。

「99年の12月29日でしたね。広瀬さんから『お前は野村総研だから、こういうのは得意だろう』と言われて事業計画を見せられたんです。内容は『CBS Sports Line』という米国のスポーツポータルサイトの日本版を作るというものだったんですが、僕は一見して(ビジネスモデルとして)絶対にうまくいかないと思いました(苦笑)。でも、年末にその資料を読み込んで思ったんです。この会社はたぶんうまくいかないだろうけれど、日本のスポーツビジネスの第一人者である広瀬一郎が02年のW杯に向けて全力で向かっていこうとするのであれば、これはジョインしないのはおかしいだろうと」

 翌00年に入って、広瀬は自身のプロジェクトの仲間集めを加速させる。その際に“ナンバー2待遇”で声をかけたのが、当時、株式会社リクルート(現リクルートホールディングス)でイサイズのスポーツ部門を立ち上げたばかりの霜越隼人であった。霜越はのちにリクルートを退社し、株式会社スポーツエンターテイメントアソシエイツ(SEA)を設立。Jリーグ公認ファンサイト『J's GOAL』の名物プロデューサーとなる男である。この時、霜越と広瀬は初対面だった。

「もちろん、広瀬さんのお名前は存じ上げていましたよ。最初、頭でっかちのややこしい人が来るんじゃないかと思っていました(笑)。確かによくしゃべるけれど、頭の回転が早くて要点をビシビシと突いてくる。非常に面白い人だなと思いました。そしたら、電通と三菱商事が出資します、時事通信と共同通信も協力します、中田英寿の『nakata.net』も取り込む予定です、だから『ナンバー2として一緒にやらないか』と、こうですよ(苦笑)。こっちはようやくイサイズにスポーツを立ち上げようとしているばかりでしたので、丁重にお断りしましたけれど」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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