2000年 ネットメディア勃興期<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

シドニー五輪で始まり、W杯日韓大会で終了

スポーツナビとイサイズが飛躍する上で、重要な役割を果たしたのがシドニー五輪だった 【写真は共同】

 結果として、本間は広瀬のチャレンジに身を投じ、霜越はオファーを断った。かくして、広瀬社長・本間副社長の体制で00年7月に立ち上がったスポーツナビと、同時期からサッカーにも力を入れるようになったイサイズは、インターネットメディア勃興期のライバルとしてW杯日韓大会が閉幕する02年の夏までしのぎを削ることになる。そしてスポーツナビとイサイズが飛躍する上で、重要な役割を果たしたのが、この年の9月から10月にかけて開催されたシドニー五輪であった。

「この大会からIOC(国際オリンピック委員会)はインターネットメディアを認めるようになったんです。スポーツナビとして記者を派遣したのは2年後のソルトレーク(冬季五輪)からですが、シドニー五輪開幕に照準を合わせてサイトをオープンさせました。

 ラッキーだったのが、シドニーは時差がほとんどなかったこと(1時間)。今では考えられないですが、新聞社は朝刊が売れなくなると考え、当時は早くても朝の9時ごろまでニュースを配信しなかったんです。その間隙を突くようにウチがニュースを出すことができた。もっともネットメディアはまだまだ地位が低くて、このころは取材現場で『なんだ、こいつら』といったように見られていましたね。ウチの記者はいろいろ大変だったみたいです」(本間)

「イサイズがサッカーに深く関わるようになった、大きなきっかけがシドニー五輪でした。4年前のアトランタ五輪での『マイアミの奇跡』の記憶もあって、『シドニーでは、どんな選手が出てくるんだろう』という期待がものすごく高まっていた。この世代が02年でも活躍するだろうということで、『Road to シドニー』という企画をやったんですよ。そうしたら五輪期間中、イサイズが(ページビュー数で)ヤフーや日刊スポーツを抜いて国内ナンバーワン、世界でも5位を記録した日があったんですね。それでようやく、サッカーにも予算がつくようになりました」(霜越)

00年に生まれた2つのネットメディアによる切磋琢磨は、W杯日韓大会の閉幕に合わせて終えんを迎える 【写真:Action Images/アフロ】

 シドニー五輪で勢いを得たスポーツナビもイサイズも、ほどなくして収束に向かうことになる。前者はネットバブルの崩壊で経営が行き詰まり、後者はリクルート事件の影響で生じた1兆6000億の借金返済のために「もうからない事業は切り捨てる」というリクルート本体の決定に抗うことはできなかった。結果、00年に生まれた2つのネットメディアによる切磋琢磨(せっさたくま)は、W杯日韓大会の閉幕に合わせて終えんを迎える。この頃の広瀬の状況について、本間は今でも思い出すことがあるという。

「あれは(02年)3月の役員会だったかな。とりあえず『スポーツナビ』をW杯が終わるまでは残すことになったけれど、広瀬さんが日付なしの退任届を提出したんですよね。いかにもあの人らしいけれど、それから会社がなくなるまで、広瀬さんは仕事には一切タッチしなくなったんです。そこであの人が何をやっていたかというと、『スポーツマンシップを考える』という原稿を書いていた。広瀬さんはその後、スポーツビジネスの伝道師としてたくさんの教え子を輩出するわけだけれど、その原型となるものは、実は『スポーツナビ』の仕事をしなくなった時からスタートしているんですよね」

<後編につづく(6/29掲載予定)。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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