2000年 ネットメディア勃興期<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
シドニー五輪で始まり、W杯日韓大会で終了
スポーツナビとイサイズが飛躍する上で、重要な役割を果たしたのがシドニー五輪だった 【写真は共同】
「この大会からIOC(国際オリンピック委員会)はインターネットメディアを認めるようになったんです。スポーツナビとして記者を派遣したのは2年後のソルトレーク(冬季五輪)からですが、シドニー五輪開幕に照準を合わせてサイトをオープンさせました。
ラッキーだったのが、シドニーは時差がほとんどなかったこと(1時間)。今では考えられないですが、新聞社は朝刊が売れなくなると考え、当時は早くても朝の9時ごろまでニュースを配信しなかったんです。その間隙を突くようにウチがニュースを出すことができた。もっともネットメディアはまだまだ地位が低くて、このころは取材現場で『なんだ、こいつら』といったように見られていましたね。ウチの記者はいろいろ大変だったみたいです」(本間)
「イサイズがサッカーに深く関わるようになった、大きなきっかけがシドニー五輪でした。4年前のアトランタ五輪での『マイアミの奇跡』の記憶もあって、『シドニーでは、どんな選手が出てくるんだろう』という期待がものすごく高まっていた。この世代が02年でも活躍するだろうということで、『Road to シドニー』という企画をやったんですよ。そうしたら五輪期間中、イサイズが(ページビュー数で)ヤフーや日刊スポーツを抜いて国内ナンバーワン、世界でも5位を記録した日があったんですね。それでようやく、サッカーにも予算がつくようになりました」(霜越)
00年に生まれた2つのネットメディアによる切磋琢磨は、W杯日韓大会の閉幕に合わせて終えんを迎える 【写真:Action Images/アフロ】
「あれは(02年)3月の役員会だったかな。とりあえず『スポーツナビ』をW杯が終わるまでは残すことになったけれど、広瀬さんが日付なしの退任届を提出したんですよね。いかにもあの人らしいけれど、それから会社がなくなるまで、広瀬さんは仕事には一切タッチしなくなったんです。そこであの人が何をやっていたかというと、『スポーツマンシップを考える』という原稿を書いていた。広瀬さんはその後、スポーツビジネスの伝道師としてたくさんの教え子を輩出するわけだけれど、その原型となるものは、実は『スポーツナビ』の仕事をしなくなった時からスタートしているんですよね」
<後編につづく(6/29掲載予定)。文中敬称略>