世界の舞台で輝きを放った堂安律 逆境の中で示した才能、心に残った悔しさ

川端暁彦

イタリア戦で躍動を見せた“マラドーアン”

負傷離脱した小川に対し、「あいつの分まで俺が点を取る」と意気込んだ堂安。試合では2ゴールを決める活躍を見せた 【写真:田村翔/アフロスポーツ】

 大会が始まると、日本は大きなアクシデントに見舞われる。エースストライカーとして期待され、実際に結果も残してきたFW小川航基(ジュビロ磐田)がウルグアイとの第2戦で負傷離脱を余儀なくされてしまったのだ。長く代表合宿では同部屋で過ごし、親しい仲だった相棒の離脱は、堂安の心理にも小さからぬ影響を及ぼす。

「航基がいなくなって、点を取れる選手がいない。『あいつの分まで俺が点を取る』と思って今日はピッチに立った」

 イタリアとの第3戦に際し、堂安はそんなコメントを残し、実際に「点を取るために何をするか」について研ぎ澄まされたプレーを見せた。それが堅守を誇る相手が守りを固めている状況で奪い取った、価値ある1点目につながった。そして、この1点目に象徴されるシンプルなプレーぶりは、2点目の伏線にもなっている。

 ハイライトで振り返れば、2点目はドリブルで相手DF4枚を突破して奪った華麗なゴール。元アルゼンチン代表のスーパースター、ディエゴ・マラドーナ氏になぞらえて言われてきた“マラドーアン”の愛称が伊達(だて)ではないことを証明するものだった。

 ただ、このプレーが成功したのは、その時間帯まで堂安がシンプルにボールを離して動き出すということを繰り返してきたからだ。イタリアのDFは堂安の選択肢をドリブルに絞ることができず、結果として対応が後手に回った。シンプルにプレーするからこそ、持ち味であるドリブルが勝負どころで輝いた。

スターになる選手が持つ絶対的な条件

中盤ではシンプルにプレーし、ドリブルはここぞというタイミングまで取っておく。それは内山監督がチーム結成からずっと堂安に求めてきたプレーだった 【写真:田村翔/アフロスポーツ】

 内山監督は、この日の堂安をこんな言葉で振り返っている。

「彼のことは14歳のころからパーソナリティーを含めて知っています。野心家ですが、少し感情移入が過剰になって状況判断を忘れてしまうことがある。小川航基のこともあったと思いますが、こういう状況になったときに、非常にシンプルなプレーをして、自分の良さを出してくれました」

 中盤ではシンプルにプレーし、ドリブルはここぞというタイミングまで取っておく。それは内山監督がチーム結成からずっと堂安に求めてきたプレーでもある。「彼には何年も見ている中で言い続けているんですけどね」と笑いながら、こう付け加えた。

「中盤のエリアではシンプルにボールを動かし、チャンスの場面での仕掛けは判断を誤らずにいく。彼がそのプレーを続けてくれると、今後が非常に楽しみです」

 堂安のパーソナリティーという意味では、エースを欠いたチームが0−2という絶望的な状況に追い詰められたことがプレーに影響を与えたという見方を、指揮官と本人がそろってしているというのも興味深かった。

「逆にこれくらい苦しい時の方が(堂安は)良いのかな」と内山監督が言えば、堂安も「自分の悪いところだと思うのだけれど、失点してからスイッチが入った」と振り返る。これを「気分屋だ」などと悪く言うのは簡単だが、逆境における強さはスターになる選手が持っている絶対的な条件である。「0−0の状況に強い」選手より、よほど頼もしい。

「(イタリア戦は)夢中だったですもん。後半なんて楽しくて仕方なかった。でも、その中でも冷静やったし、球離れも早かったので、あれが続けられればいいなと思います」

U−20W杯の戦いは終わってしまったが、堂安律の戦いはここからが本番。そう確信させるだけのモノを見せてくれた 【写真:田村翔/アフロスポーツ】

 まばゆい輝きを放ったイタリア戦から中2日で迎えたラウンド16のベネズエラ戦(0−1)。堂安の世界舞台での挑戦は、そこで閉幕してしまった。

「続けられれば」という言葉とは裏腹に、その輝きは限定されていた。「あとは攻撃陣の得点だけ(という試合)だったので、自分の責任」という言葉は、エースの自覚を感じさせるものだったが、同時に「楽しくて仕方なかった」というイタリア戦の感覚とは少し違うものだったかもしれない。

 プレーヤーとしての資質と進化を証明し、最高の喜びも味わい、そして最後に悔恨を残した。だが、そのすべてが彼の今後にとって貴重な糧となるだろう。目指すのは「あいつやっぱり決めるなと思われる選手」だと言う。U−20W杯の戦いは終わってしまったが、堂安律の戦いはここからが本番。そう確信させるだけのモノを見せてくれた11日間だった。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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