東京のクラブであり続けることの難しさ J2・J3漫遊記 東京ヴェルディ編

宇都宮徹壱

東京移転は「クラブの悲願」だった

ホームで松本に0−4で敗れ、サポーターからブーイングを浴びるヴェルディの選手たち。厳しい戦いは今季も続く 【宇都宮徹壱】

 試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、ゴール裏から激しいブーイングと怒号が鳴り響いた。選手たちがあいさつに向かうと、ゴール裏の住人たちは抑えきれない感情を、言葉にならない言葉でぶつける。当事者ならずとも、いたたまれなくなる光景がそこにはあった。東京・味の素スタジアムで行われたJ2リーグ第12節、東京ヴェルディ対松本山雅FC。ともにチームカラーがグリーンであることから「グリーンだよ!全員集合!」と銘打たれた両者の対戦は、アウェーの松本が4−0で圧勝。普段は忍耐強いことで知られるヴェルディサポーターも、この日の試合内容と結果には、さすがに我慢ならなかったようだ。

 松本のユニホームがグリーンになったのは、Jリーグ黎明期に圧倒的に強かったヴェルディにあやかってのものであったと、あるチーム関係者から聞いたことがある。キラ星のような日本代表選手を擁していた当時のヴェルディは、泥臭いホームタウン活動とはまったく無縁の、まさに「テレビの世界の存在」であった。あれから20と余年。ヴェルディは、読売新聞と日本テレビが相次いでメインスポンサーから離れ、しかも2001年に東京に移転したことで、そのクラブの体質を大きく変容させることを求められた。その間、00年にJ1に昇格したFC東京に対しては、「ライバル」という言葉が死語に感じられるくらい、戦績でも集客でも話題性でも大きく水を空けられるようになる。

 Jリーグ開幕時、川崎市を本拠としていたヴェルディは、なぜJリーグの「禁じ手」とも言える本拠地移転を断行し、「東京」を名乗るようになったのか。「それがクラブの悲願だったからです」──そう回想するのは、当時ヴェルディの社長であった坂田信久である。今年75歳になる坂田は、日本テレビの社員として、のちにサッカー界の風物詩となる高校サッカー選手権やトヨタカップの放映権獲得に尽力したことで知られるが、1969年の読売クラブ立ち上げにも深く関与している。98年に日テレからヴェルディに出向する際、坂田を突き動かしたのは、「このクラブが生き延びるためには東京移転しかない」という、自身の揺るぎない確信であった。

「東京移転は私の最大のミッションでした。あの時、川崎から東京に移っていなかったら、膨大な赤字を抱えてクラブは間違いなく潰れていた。それに東京移転は、クラブの悲願でもありました。実は(Jリーグ開幕前)、ウチは国立競技場をホームにするための申請をしていたんです。国立側も『人気クラブが使ってくれるなら』とウェルカムな感じでした。でも最終的に認められず、等々力をホームグラウンドにしたという経緯があります。結局、川淵さん(三郎=当時Jリーグチェアマン)も、『ヴェルディには潰れてほしくない』という想いから、ホームタウン移転という前代未聞の願いを聞き入れていただきました」

「東京全域がホームタウン」という認識

経営企画部長の常田幸良氏。FC東京との差を実感したのは「初めてJ2に降格した06年」であったと語る 【宇都宮徹壱】

 これまで、全国のJ2・J3のホームタウンを訪ね歩きながら、それぞれの地域のクラブにフォーカスしてきた当連載。今回はいつもと趣向を変えて、「東京」という土地にこだわってみることにしたい。すなわち「ひとり勝ち」を続けているJ1のFC東京に対し、都内に本拠を置くクラブは、どのような独自性を打ち出しながら地域密着を図ろうとしているのか──というのが、今回のシリーズのメインテーマである。

 総面積こそ47都道府県で3番目に小さいが、人口の数と密度では最も大きい東京。サッカー以外の娯楽が多様性にあふれ、Jリーグ開催可能な競技施設が限られ、住民の地域へのロイヤリティーは決して高いとは言えない。ある意味、地方のJクラブとはまったく異なる特殊な地域性に向き合わなければならないのが、都内を本拠とするクラブの宿命。今回フォーカスする東京ヴェルディも、01年の東京移転以来、ずっとこのテーマに悩み続けてきたクラブである。

「われわれは1969年に読売クラブとして設立され、当時からプロクラブを目指してきました。これまでの歴史、そして数々の実績には当然ながらプライドを持っていたわけで、移転した当時、向こう(FC東京)と比較するということは、ほとんど意識しなかったですね。もちろん、同じ東京のクラブとして『負けられない』という強い想いはありましたよ。試合もそうだし、アカデミーや観客数についてもそうでした」

 そう語るのは、ヴェルディの経営企画部長、常田幸良51歳。93年2月入社の常田は、現在社歴が2番目に長く、Jリーグ開幕の熱気を経験した数少ない現役スタッフである。入社当時の担当はチケッティング。「あの頃はコンビニでなく、電話で販売していたわけですが、5試合分のチケットを市場に出すと10分くらいで完売しましたね。そのあとはクレームの嵐でしたよ(苦笑)」と往時を振り返る。

「FC東京との差を実感した時ですか? 初めてJ2に降格した06年ですかね。当時は事業統括部長でしたが、セールスの部分、つまりチケットのスポンサーの売り上げが半分くらいに落ちましたから。正直、しんどい時代でした」

 確かに、J2降格が大きな痛手だったことは間違いないだろう。しかしそれ以前に、地道なホームタウン活動という面でクラブが遅れをとっていた感は否めない。とりわけ、味スタがある調布市が、99年の段階でFC東京の支援を表明したことは、「陣取り合戦」という視点で考えればかなりのマイナスだったはずだ。しかし当時、クラブ内にそうした危機感が共有されていた形跡は見当たらない。それは常田のこの発言からも明らかだ。

「ウチは『東京全域がホームタウン』という認識だったので、僕自身も(ホームタウン活動を)細分化すべきではないと感じていました。それと、もともとメディアが親会社でしたので、マス媒体を駆使した『空中戦』ありきの発想だったかもしれない。都庁担当を作るという手もあっただろうけれど、いかんせんマンパワーが足りませんでしたね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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