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高橋大輔を導く『道』となった銅メダル
写真で切り取るフィギュアの記憶

 選手の数だけそれぞれの物語がある。笑顔、涙、怒り……こうした表情とともにこれまで多くの名場面が生まれてきた。後世まで脳裏に刻んでおきたいフィギュアスケートの記憶を写真で切り取る。

「高橋大輔 バンクーバー五輪(2010年)」

【写真:ロイター/アフロ】

 誰をも幸せにする銅メダル。それがあの、2010年バンクーバー五輪での高橋大輔の銅メダルでした。


 それは、まさに皆がつながっていくドラマでした。06年トリノ五輪で8位となり、「次の五輪こそメダル」と誓った高橋。ところが08年秋に右膝じん帯断裂の大けがを負い、08−09シーズンは完全に欠場しました。復帰できるのか、そして復帰したとしても五輪でメダルを狙うまでに持っていけるのか――。しかも、満身創痍(そうい)の高橋が狙う「五輪のメダル」は、日本男子にとっては未踏の地でした。


 1932年のレークプラシッド五輪に日本が初参加してから、メダルへの道のりは遠いもの。92年アルベールビル五輪で伊藤みどりが“日本初”となる銀メダルを獲得し、それを機会にジュニア選手の早期発掘・育成がスタート。その有望新人の第一期生が荒川静香で、多くの支援を受けながら06年トリノ五輪でアジア人初の金メダルを獲得しました。しかし男子のメダル獲得はありません。


 どうやったら日本男子初のメダルという壁を打ち破ることができるのか。五輪を前に高橋は、06年の荒川のことを振り返りました。


「あの時、荒川さんも僕もニコライ・モロゾフコーチに師事していたこともあって、常に選手村や練習会場への行き来を一緒にしていた。荒川さんがすごく自然体で、五輪自体を楽しんでいるのを同じ空気で感じた。だから今回は自分も、自ら五輪を楽しもう。五輪の雰囲気を感じ取ろう。それを感じられるくらいに、僕はちゃんと練習して準備はしてきたのだから」

【写真:青木紘二/アフロスポーツ】

 そして迎えた2月16日(現地時間)のSP。会場となるパシフィック・コロシアムは1万6000人の超満員でした。もともとフィギュアスケートに熱狂的なカナダ・米国のファンの中、はるか日本から来たファンが、声を震わせて“大ちゃん”コールを送ります。SPは日本のアコーディオニストcobaによる『eye』。当時、日本の新鋭の振付師として活躍しはじめた宮本賢二が振り付けた、高橋の色気とノーブルさ(気高さ)とを引き出す一曲です。


 多くの人々に支えられて到達したバンクーバーの地で、高橋はSPで軽やかなトリプルアクセルを成功させます。自己ベストを更新する90.25点をマーク。4位に5.4点の点差をつける3位での折り返しでした。


 2日後となるFS。SPでの点差を考えると、3位を守るためには4回転を回避という選択肢もありました。しかし高橋の心は1つ。


「アスリートとして向かってきた1つの理想は、4回転を入れたうえでまとめること。4回転はやる」


 成功するかどうか、を問うているのではありませんでした。五輪という舞台を感じとろうと決めていた高橋にとって、メダル死守のために、自分の理想を変える必要はなかったのです。

野口美恵

元毎日新聞記者、スポーツライター。自らのフィギュアスケート経験と審判資格をもとに、ルールや技術に正確な記事を執筆。日本オリンピック委員会広報部ライターとして、バンクーバー五輪を取材した。「Number」、「AERA」、「World Figure Skating」などに寄稿。最新著書は、“絶対王者”羽生結弦が7年にわたって築き上げてきた究極のメソッドと試行錯誤のプロセスが綴られた『羽生結弦 王者のメソッド』(文藝春秋)。

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