斉藤祐也が語る「ラグビーの海外挑戦」 元日本代表がフランスで感じたこと
来季からは五郎丸歩(ヤマハ発動機)がスーパーラグビーのレッズに加入するなど、海外を目指す選手も増えている。こうした海外挑戦のメリットとデメリットについて、現役時代にフランスリーグでプレーし、日本代表でも活躍した斉藤祐也氏に話を聞いた。
日本一になり「もっと向上するには上のレベルで」
現役時代にフランスリーグでプレーし、日本代表でも活躍した斉藤祐也氏 【赤坂直人】
理由としては2点あります。まずは個人の能力を向上させたかったことです。当時は明治大からサントリーに入り、レギュラーになって日本選手権も優勝しました。そこで「自分がもっと向上するには、さらに上のレベルで戦った方が良いのではないか」と感じていたので、海外に目を向けました。
もうひとつの理由は「プロスポーツ選手になりたい」という考えがあったことです。当時はラグビーは会社員がするもので、私も働きながらプレーしていましたが、ほかのスポーツのようにプロとして競技に集中したいと思っていました。
――海外移籍の契約の難しさはありましたか?
代理人を立てて交渉していたので、私はサインをするだけでした。金銭面の希望を出さなかったので、話がスムーズに進んだのかもしれません。金銭面にこだわらないのは本来はプロとして良くないことだと思いますが、まず海外でプレーしたい、そこで自分の力を証明したいという思いが強かったので、「入団すれば認めさせてみせる」という気持ちでしたね。
ただ、ひとつ条件として挙げていたのは日本代表のスケジュールを優先してほしいということです。やはり日本代表への思いが強かったので、そこはチームにお願いしていました。
――通訳や生活面でのサポートはあったのでしょうか?
年俸はそんなに高くありませんでしたが、車や家を用意してくれるなど、生活面のサポートは良かったので助かりました。ただ、通訳は最初の契約時だけで、その後は一人で生活して練習していました。語学は全然自信がなかったんですが、ラグビー用語だけは覚えていきました。フランスでは「スクラム」も「ラインアウト」も違う言葉なので。
あとは数字を100まで覚えました。ラインアウトは日本と同じように数字でサインが出て、私はジャンパーだったので必死で覚えましたね。
フランスでも評価されたスピード
力強く、スピード豊かなプレーを生かして日本代表で活躍 【写真:アフロスポーツ】
当時のフランスはフォワードとバックスが一体となった「シャンパンラグビー(シャンパンの泡のように次々とサポートの選手が出てボールがつながる)」でしたから、ボールをつなぐことが重要視されていました。タックルで倒されてもすぐに出せる状態ならOK、何秒以内に出せないと笛が鳴って相手ボールになるという練習もありました。
その中で私はスピードを評価されていたのでフランカー(FL)でしたが、ライン際に残ってボールをもらうなど自由な役割も任されていました。今のラグビーではシステムとしてライン際に大きな選手を残すことがありますが、当時は新鮮でしたし、自分の持ち味を出せるのでプレーしていて楽しかったです。
また、私はオフロードパス(タックルをされながらのパス)が得意だったので、練習でやってみせると、チームメイトが理解して合わせてくれるようになりました。ただ、コーチはミスには厳しかったです。良ければ「ナイスパス」とほめてくれるんですが(笑)。
――日本のコーチングとの違いは感じましたか?
当時のフランスは独特でしたので、やはり違いはありました。ただ、オフロードパスなどは日本代表でも「外国勢のディフェンスを破るためには必要だから、どんどんチャレンジしろ」と言われていて、どちらも自分の強みを出せました。日本では当時、オフロードパスはあまり推奨されていなかったのですが、私の特徴を理解してもらっていたのはうれしかったです。
ラグビー専門誌で週のベスト15に選出
2001年にはサントリーの一員としてウェールズ代表を破る大金星に貢献した 【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】
やはり、最初は日本人ということでナメられていました。しかし、練習と試合で結果を出すことで、だんだん周囲の評価が上がってきたことを感じました。
フランスのラグビー専門紙『ミディ・オリンピック』では、週のベスト15に選ばれたこともありました。私以外に選ばれた選手はフランス代表や各国の代表もいたので、自分が通用しているという自信になりましたね。
試合によってはウイング(WTB)でプレーしたこともありました。それだけスピードを評価してくれていたということです。