岡田彰布が語る“伝説の3連発” 色あせない、阪神1985年の追憶

スポーツナビ

槙原にはやられている印象の方が強い

85年、阪神日本一の象徴の1つとして語れるバックスクリーン3連発だが、選手たちにとっては序盤の1勝でしかなかったようだ 【写真は共同】

――バックスクリーン3連発だと分かったのはどんなタイミングだったのでしょうか?

 掛布さんのホームランはバックスクリーンだとは気付かなかったし、試合に没頭していたからバックスクリーン3連発との感覚はないよ。3者連続ホームランは決してないことはないだろうし。むしろ、4人目の佐野(仙好)さんの方が意識していたように思うよ。

 シーズンが終わって、振り返ってみて初めて意識したわな。後から考えれば、3連発もあって、巨人に3連勝したわけだから、勢いがついたのは確かだ。

――85年の阪神優勝の象徴の1つとして語られますが、当時は1勝としか見ていなかったのでしょうか?

 そやな。シーズン中は意識していなかった。チームが勢いついたことは確かだと思うけどな。結局、リーグ優勝して、日本一になったから語られるけど、当時はこれで勝てるとか、優勝できるという感覚はなかったよな。まだまだシーズンは長いからな。

――いま、30年前を振り返って、バックスクリーン3連発の意味はなんでしょうか?

 バースに一発が出たこと。もちろんオレもだけど。開幕直後、バースの状態は良くなかったからな。そのバースに一発が出た。その意味の方が大きかったわな。選手は一発が出て、やっと開幕できたみたいな感覚を持つからな。

――当時の監督、吉田義男さんとはこの時の話をされたりしましたか?

 後からやで。長いシーズンを振り返ってな。具体的には「3連発で勢いがついたな」みたいな話であって、当時は(3連発の)話をすることはなかったな。1勝できて安心したみたいな感じだった。

――それでは相手ピッチャーの槙原さんとは当時の話をしましたか?

 そうやな、話すよ。先ほど話をしたバースへの1球がシュートだったということは、その中で聞いたんや。オレ、槙原がシュートを投げるなんて知らんかったからな。でも槙原にはやられている印象の方が強い。甲子園で1安打完封もされた。ホンマ、4月17日だけだったとちゃうかな、槙原をやっつけたのは。

御巣鷹山の事故、チームが心ひとつに

――岡田さんは当時、選手会長をしていましたが、85年の印象は?

 オレも二塁コンバートの年だったが、選手会長としての優勝よりも、85年は日本航空の事故(編集部注:8月12日、球団社長の中埜肇氏が搭乗する日航機123便が群馬・御巣鷹山に墜落。中埜氏が死去した)の印象が強い。8月は一番苦しい時期だったしな。(8月13日から)6連敗もした。3連発よりそっちの印象の方が強いよな。

 オレの入団する前から、チームの調子が良くても夏のロードで失速していったからな。勝ってはいたけど、「8〜9月に失速するだろう」という周囲の目は感じていたよ。しかも、その通りに8月末に3位に落ちたからな。“死のロード”、6連敗、社長の死を乗り切って、3位から這い上がって優勝できたことが一番の印象だ。結局、日本一になったから、3連発が注目されるが、オレたち選手からすると、開幕4試合目の試合が優勝に結び付いたとは到底思えないわな。

――85年の優勝を語るには、御巣鷹山の事故は外せない出来事だったのですね。

 優勝する、という気持ちが余計に強くなったのは確かだ。(社長が亡くなったのが)ちょうど“死のロード”中でな。広島でオレが選手みんなを集めて決起集会じゃないけど、選手ミーティングはしたな。当時はピッチャー陣の状態が悪かったから、オレが代表して吉田監督に、オールスターのように福間(納)さん、中西(清起)、山本和行さんを3イニングずつ起用してくれと言いに行ったりもした。却下されたけどな(笑)。

――這い上がれた要因のひとつなんですね。

 周囲からは「予定通りの失速」と言われたが、やはりいろいろなことが重なってな、選手の間でも「何とかせなアカン」「何とか見返してやらないとアカン」という思いが強かったよね。本質的には毎年思っていたことだけど、あの年は社長の事故があって、特に強かったのは事実だ。

――優勝を確信したのはいつ頃のことでしたか?

 85年は、9月入っても巨人、広島と三つ巴だったからな。9月11日、オレのホームランを含む10得点で大洋(現在の横浜DeNA)に大勝してマジックは点灯したが、「優勝」ということは監督も言わなかった。「一戦一勝」ばかり言ってたな。本当に意識したのはマジックが1ケタになってから。

――85年のシーズン前、決して阪神の評価はあまり高くなかったようですね。

 当時は前年のリーグ優勝チームである広島が強かったからな。阪神はピッチャーが弱点と見られていたから、「打ち勝たなアカン」とは思っていた。オレは、個々の能力は非常に高かったので、「なんで優勝できへんねん」と思っていた。その意味で、85年は個々の能力がチームとして一気に開花した年かも分からんな。

――今でも吉田監督や当時のメンバーと親睦会「天地会」を開いているとのことですが、当時を振り返って、どんな話をされますか?

 当時はよう練習したよな、とか。春季キャンプから「優勝」という言葉はほとんど出んかったよなって話をする。4月17日の話も出んよ。

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