本田圭佑が描き出す新たなリーダー像 悩みながらピッチ内外で正解を模索する

木崎伸也

「選手たちは監督より、圭佑を見ている」

W杯後から日本代表のキャプテンマークを巻いている本田。しかし、ザッケローニ監督時代からすでに絶対的なリーダーだった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 日本代表がジャマイカに1対0で勝利した2日後(10月12日)――。シンガポールにおける初練習が終わると、日本代表の広報からTV関係者にこんなアナウンスがあった。

「今日の本田圭佑ですが、TVインタビューに本人がしゃべると判断したら来ます。でも、しゃべらないと判断したら来ません」

 こういう歯切れの悪いアナウンスになったのには理由がある。本田はワールドカップ(W杯)・ブラジル大会後にキャプテンマークを巻くようになってからというもの、ミックスゾーンで取材に応じる回数が格段に増えていた。しかし一方で、「試合2日前からは取材に応じない」というポリシーを持っている。すでにこの日はブラジル戦の2日前で、ルールを適用すると“しゃべらない日”であった……。

 結果は、後者だった。

 本田はTVブースの横をすっとすり抜け、そのままバスに乗り込んだ。キャプテンマークを巻くようになっても、周囲からの視線が変わっても、やはり本田は本田だった。

 そもそも本田はキャプテンマークを巻く前から、日本代表の絶対的なリーダーだった。

 アルベルト・ザッケローニ監督時代には、長谷部誠や遠藤保仁とともに監督と戦術を議論し、チームの方針に大きな影響を与えた。乱暴に言えば“表のキャプテン”が長谷部で、“裏のキャプテン”が本田である。「選手たちは監督よりも、圭佑を見ている」。そんな言葉がチーム内から聞こえてきたこともあった。

恩師たちが語るリーダーとしての資質

海外のクラブでも本田のリーダーシップは発揮された。VVVではキャプテンとしてチームを2部優勝に導いた 【VI-Images via Getty Images】

 本田は生まれながらのガキ大将だ。

 星稜高校(石川)時代には、県外から越境してきた同級生4人のリーダーとして、彼らをひっぱり回した。同校サッカー部の河崎護監督から、こんなエピソードを教えてもらったことがある。

「4人はまるで兄弟のようで、いつも一緒にいたんですが、当然リーダーは本田くん。部屋に集まってトランプをしたら、本田くんが勝つまで寝かせてもらえないと他の3人がぼやいていました(笑)。交流は今でも続いていて、本田くんが金沢に戻って来ると集合がかかる。1人は兵庫県で働いているんだけど、『飯食うぞ!』と誘われたら金沢まで駆けつける。どんなに本田くんが有名になろうと、親友であり、ライバルであり、リーダー。羨ましい関係です」

 もちろんピッチ内でも絶対的存在で、星稜高校の3年時にキャプテンマークを巻き、冬の選手権では石川県勢として初のベスト4進出を果たした。

 オランダに行って外国人選手の中に飛び込んでも、ガキ大将でい続けた。VVVフェンロに移籍してから2シーズン目の途中、当時22歳だった本田はキャプテンを任され、その重圧に打ち勝って2部リーグで優勝。市庁舎のテラスから優勝の皿を掲げ、クラブのレジェンドになった。

 なぜ本田はフェンロでキャプテンに指名されたのか? 当時チームを率いていたヤン・ファンダイク監督に質問すると、こんな答えが返ってきた。

「あのときチームは2連敗していて、何かを変えたかった。そこで私はケイスケをキャプテンに指名したんだ。ケイスケは『自分でいいんですか?』と驚いていたね。周囲もビックリしていた。でも私は、ケイスケがリーダーに必要な資質を持っていることに気がついていたんだ。この決断の正しさを、結果が証明してくれた」

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著者プロフィール

1975年、東京都生まれ。金子達仁のスポーツライター塾を経て、2002年夏にオランダへ移住。03年から6年間、ドイツを拠点に欧州サッカーを取材した。現在は東京都在住。著書に『サッカーの見方は1日で変えられる』(東洋経済新報社)、『革命前夜』(風間八宏監督との共著、カンゼン)、『直撃 本田圭佑』(文藝春秋)など。17年4月に日本と海外をつなぐ新メディア「REALQ」(www.real-q.net)をスタートさせた。18年5月、「木崎f伸也」名義でサッカーW杯小説『アイム・ブルー』を連載開始。

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