本田圭佑が描き出す新たなリーダー像 悩みながらピッチ内外で正解を模索する
「選手たちは監督より、圭佑を見ている」
W杯後から日本代表のキャプテンマークを巻いている本田。しかし、ザッケローニ監督時代からすでに絶対的なリーダーだった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
「今日の本田圭佑ですが、TVインタビューに本人がしゃべると判断したら来ます。でも、しゃべらないと判断したら来ません」
こういう歯切れの悪いアナウンスになったのには理由がある。本田はワールドカップ(W杯)・ブラジル大会後にキャプテンマークを巻くようになってからというもの、ミックスゾーンで取材に応じる回数が格段に増えていた。しかし一方で、「試合2日前からは取材に応じない」というポリシーを持っている。すでにこの日はブラジル戦の2日前で、ルールを適用すると“しゃべらない日”であった……。
結果は、後者だった。
本田はTVブースの横をすっとすり抜け、そのままバスに乗り込んだ。キャプテンマークを巻くようになっても、周囲からの視線が変わっても、やはり本田は本田だった。
そもそも本田はキャプテンマークを巻く前から、日本代表の絶対的なリーダーだった。
アルベルト・ザッケローニ監督時代には、長谷部誠や遠藤保仁とともに監督と戦術を議論し、チームの方針に大きな影響を与えた。乱暴に言えば“表のキャプテン”が長谷部で、“裏のキャプテン”が本田である。「選手たちは監督よりも、圭佑を見ている」。そんな言葉がチーム内から聞こえてきたこともあった。
恩師たちが語るリーダーとしての資質
海外のクラブでも本田のリーダーシップは発揮された。VVVではキャプテンとしてチームを2部優勝に導いた 【VI-Images via Getty Images】
星稜高校(石川)時代には、県外から越境してきた同級生4人のリーダーとして、彼らをひっぱり回した。同校サッカー部の河崎護監督から、こんなエピソードを教えてもらったことがある。
「4人はまるで兄弟のようで、いつも一緒にいたんですが、当然リーダーは本田くん。部屋に集まってトランプをしたら、本田くんが勝つまで寝かせてもらえないと他の3人がぼやいていました(笑)。交流は今でも続いていて、本田くんが金沢に戻って来ると集合がかかる。1人は兵庫県で働いているんだけど、『飯食うぞ!』と誘われたら金沢まで駆けつける。どんなに本田くんが有名になろうと、親友であり、ライバルであり、リーダー。羨ましい関係です」
もちろんピッチ内でも絶対的存在で、星稜高校の3年時にキャプテンマークを巻き、冬の選手権では石川県勢として初のベスト4進出を果たした。
オランダに行って外国人選手の中に飛び込んでも、ガキ大将でい続けた。VVVフェンロに移籍してから2シーズン目の途中、当時22歳だった本田はキャプテンを任され、その重圧に打ち勝って2部リーグで優勝。市庁舎のテラスから優勝の皿を掲げ、クラブのレジェンドになった。
なぜ本田はフェンロでキャプテンに指名されたのか? 当時チームを率いていたヤン・ファンダイク監督に質問すると、こんな答えが返ってきた。
「あのときチームは2連敗していて、何かを変えたかった。そこで私はケイスケをキャプテンに指名したんだ。ケイスケは『自分でいいんですか?』と驚いていたね。周囲もビックリしていた。でも私は、ケイスケがリーダーに必要な資質を持っていることに気がついていたんだ。この決断の正しさを、結果が証明してくれた」