最後まで心優しかった天性のスケーター 高橋大輔、“3人の母”と迎えた引退
実母と2人の元コーチに囲まれて
20年の現役生活に終止符を打ち、晴れやかな表情で会見に臨んだ高橋 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
高橋大輔(関西大大学院)の引退宣言は、そんな言葉から始まった。28歳と7カ月。ピークが20代半ばといわれるフィギュアスケートで、3度の五輪に出場し、10年近く日本男子のエースとして荒野を切り開いてきた。2014年10月14日、高橋は、実母と2人の元コーチの「3人の母」に囲まれ、照れくさそうに“引退”の二文字を口にした。
母も2人のコーチも、口をそろえて言うのは「気を遣う、心優しい子」。天性のスケートのセンスがある一方で、高橋の性格は、世界の強豪と戦うアスリートとしては弱かった。しかし気持ちが弱いからこそ成長しようとする、そのひたむきさを、多くのコーチやファンが支える20年だった。
「ガラスのハート」と呼ばれていた
「クリクリとした目の可愛らしい子でしたね。まだ大輔君がスケートを始めた20年前は、男子はマイナーな競技だったからこそ、ひどい点数を取っても『よーし、今度こそ頑張ったら先生、ごちそうしてくれる?』などと言いながら、楽しんでスケートを頑張った地元での10年でした」
天真爛漫(らんまん)な高橋を世界の舞台へと引き上げたのは、長光歌子コーチだ。中学2年となった99年のこと。体から音楽が聞こえてくるようなスケーティングをする高橋を一目見て、長光コーチは「この子の滑りを世界中の人に見てもらいたい」と決意した。
高橋を自宅に住まわせ、二人三脚での競技人生をスタート。まだ少年だった高橋は、こんなことをいって長光コーチを驚かせた。
「先生、僕はここに来るまで、いろいろな方に支えられてきたけれど、どんなふうに恩返ししたらいいでしょう?」と。長光コーチは「頑張って練習して、成績を収めることが恩返し」と伝えた。
02年世界ジュニア選手権では日本男子初となる優勝を飾るが、シニアに上がってからは成績不安定に。気の優しい性格から本番に弱く「ガラスのハート」との汚名まで着せられた。
苦境を乗り越え日本のエースに
バンクーバーでは日本男子初の銅メダルを獲得 【写真:ロイター/アフロ】
05年12月のグランプリファイナルのこと。日本男子初となる3位に入り満足げな高橋に、モロゾフは「お前は3位で満足しているのか?」と聞いた。高橋が「満足している!」というと、「お前はバカか! 世界の頂点を目指す者が、3位で満足するな」と怒鳴った。高橋の欲のなさを、モロゾフが刺激し続けた。
トリノ五輪は8位。十分な成績だったが、荒川静香から、彼女が獲得した金メダルを首にかけてもらって初めて欲が湧いた。
「自分はただ緊張して興奮していたけれど、荒川さんは落ち着いていて、自然体で、心から五輪を楽しんでいた。次のバンクーバーでは、僕もあんなふうに五輪を過ごして、そしてメダルを取りたいな」
バンクーバーまでの4年は、さらに波乱に満ちていた。08年春には、モロゾフが織田信成も指導することになり、「ライバルと同じコーチというのはキツイ」と言ってモロゾフと袂を分かった。自分だけを見ていてほしい、という心の弱さが抑えられなかった。その秋、右膝のじん帯と半月板を損傷。1年にわたる過酷なリハビリをへてバンクーバー五輪シーズンに復帰する時には、茶髪を黒く染め、決意に燃える目で現れた。
「ケガの前は、コーチと離れたこともあってメンタルがいっぱいの状態でした。今はケガをしたことが、五輪につながる、プラスになった、と確信しています」
この時、23歳。少年の幼さが完全に消え、日本のエースの貫禄を身につけていた。
10年バンクーバー五輪で日本男子初となる銅メダルを獲得すると、スケートの寿命を考えれば引退してもおかしくないとささやかれた。しかし、こんなふうに後輩へ気を遣った。
「引退も考えました。でも今の自分は『つなぐ』ということをやらなきゃいけない。注目されることがいかに幸せか、僕は分かる。次の世代が苦労しないようスケート人気をつなぎたいです」