最後まで心優しかった天性のスケーター 高橋大輔、“3人の母”と迎えた引退

野口美恵

周囲への感謝を伝えたソチ五輪

ソチ五輪は6位だったが、晴れやかな表情で滑り切った 【写真:ロイター/アフロ】

 それから4年。スケート人気を高橋がけん引するかたわら、次世代の羽生結弦(ANA)もめきめきと力を伸ばしてきた。12年全日本選手権では、羽生に越されての2位。若手の勢いに、気持ちで押された。
「僕もあれくらい鼻息が荒かったらなあ。“勝ってやる”とか思えたら若いころから成績を出していたのかも」。悔しさよりも、苦笑いが先に漏れた。

 ソチ五輪シーズンが始まるころ、高橋は五輪に向けて焦るでもなく、躍起になることもなく、ただ周囲への感謝の言葉を伝えるようになっていた。
「長光先生が引っ張ってきてくれたお陰で27歳までスケートをしてきました。師弟関係は超えていて、第二の母。恥ずかしいですけど。一番大変な思春期まっさかりに、2人で海外に行ったし、先生は本当に大変だったと思います」

 そして3度目の五輪となるソチ大会は、ケガが悪化した状態で臨むことに。順位は6位だったが、それでも晴れやかな表情での演技が、観る者の心を打った。
「皆さんに良い報告ができなくて残念ですけれど、もう(自分を)受け入れるしかないので、笑顔になったのかなと思います。お客さんも日本から多く来てくださいましたし、そういった人に向けても精いっぱいやりたかった。いろいろな思い出がありますが、自分にとっては最高のソチでした」

 その後、世界選手権はケガのために棄権。「1年間の休養」宣言をした。引退を決意したのはそれから半年後の9月中旬。長光コーチにその思いを打ち明けた。長光コーチはこう語る。
「2人ともドライなので、泣いたりしませんでした。ただ一言、お疲れさまと伝えました」

 10月13日の夜、佐々木コーチと母の清登さんに、高橋は電話で「明日、引退を発表するから」と伝えた。母は「半分ほっとした気持ち、よく頑張ったなという気持ち、ちょっと寂しいなという気持ち。でも本人から聞けたのでうれしかったです」という。

晴れやかに響いた引退の言葉

会見に同席した長光コーチ(左)も高橋をねぎらった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 一夜明けた14日は、台風19号が去った台風一過の晴天に。引退会見は、地元の岡山での式典後を選んでいた。母と2人のコーチと「3人の母」も登壇し、いつになくアットホームな雰囲気で会見は始まる。3人の母は綺麗におめかしをして、引退というよりも、新しい門出のお祝いだ。高橋の「引退を決意しました」という重たいセリフも、晴れやかに響いた。

 長光コーチは「彼は十分に皆さんに恩返しできたんじゃないかと思います。血はつながっていませんけれど家族の1人のようなもの。今後もうるさいオバサンのままでいたいと思います」と笑顔。佐々木コーチも「大輔君の後ろ姿はしっかり後輩に受け継がれています」と言い、地元の子どもを引き連れ、高橋や長光コーチに花束を渡した。

 母の清登は「歌子先生には迷惑をかけましたが、安心してお任せしておりました。本当に大輔はいい人に巡り会って、産んだのは私なんですけれど、育てて下さったのは2人のコーチの力が大きかったですね」

 3人の母が交互に労をねぎらい、高橋は終始照れ笑い。そして最後にこう挨拶した。
「ファンの方の心の準備がないままに引退という形をとってしまって、申し訳なく思います。1年考えてから(引退を)言おうかと思ったのですが、これから他の選手がモチベーションを上げていく時期に言うよりも、シーズンが始まる前に発表しようと思いました」
 ファンやライバルへの気遣いが、言葉の端々にもれた。
「気を遣い過ぎる、心優しい少年」と言われた高橋はやはり、現役最後の日も周りに気を遣った。高橋らしい引退だった。

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著者プロフィール

元毎日新聞記者、スポーツライター。自らのフィギュアスケート経験と審判資格をもとに、ルールや技術に正確な記事を執筆。日本オリンピック委員会広報部ライターとして、バンクーバー五輪を取材した。「Number」、「AERA」、「World Figure Skating」などに寄稿。最新著書は、“絶対王者”羽生結弦が7年にわたって築き上げてきた究極のメソッドと試行錯誤のプロセスが綴られた『羽生結弦 王者のメソッド』(文藝春秋)。

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