福島をひとつにする存在でありたい=J2・J3漫遊記 福島ユナイテッド<前編>

宇都宮徹壱

「ユナイテッド、なくなっちゃうの?」

社長の鈴木勇人。震災と原発事故という未曾有の危機を乗り越えて、クラブ存続に尽力した 【宇都宮徹壱】

 クラブ社長の鈴木は、父親が興した建築設計会社の経営者でもある。1995年に福島で開催された国体では成年サッカーでの選手経験があり、ユナイテッドの前身であるFCペラーダ福島でもプレーした。そんな鈴木が、当時東北リーグ1部に所属していた福島ユナイテッドの運営に関わるようになったきっかけが、2010年の「緊急事態宣言」。8月の時点で、およそ1000万円の運営資金が不足していることが明らかとなり、クラブへの募金を公式HPで訴える活動を展開した。何とかチーム存続を果たすと、翌11年には新たな運営会社を立ち上げることになり、鈴木は5人の発起人のひとりとなった。

「最初は常務という立場でした。ところが3月11日に震災が起こって、当時の社長が財界の役職に注力しなければならず、私が社長を引き受けることになりました。とはいえ、あの時は絶望的な状況でしたね。スポンサーは相次いで撤退するし、増資も取り下げられるし、東北リーグも開幕するかどうか見通しが立たなくて、7人の選手が退団しましたし。原発事故もどうなるか分からず、正直『これは無理かな』と思っていました」

「トップチームだけの運営であれば、そのまま諦めている可能性は高かった」──そう、鈴木は当時を振り返る。しかし福島は、県内各地で地道なスクール活動を続けていた。その中でも特に活発だったのが、津波の被害が甚大だった南相馬。そこから十六沼公園の体育館に避難してきたスクールの子どもに「ユナイテッド、なくなっちゃうの?」と涙ながらに訴えられて、鈴木は何とか踏みとどまろうと決断する。だが、問題は山積していた。

「いくら電卓をたたいてみても、やっぱり資金が足りないわけですよ。何度も何度も会議を開きましたが、このままではやっぱり無理だと。そう困っていたときに『農産物の風評被害を払しょくしたい』と、JA全農福島さんからスポンサードのオファーをいただきました。これなら一歩、踏み出せるかもしれないと思いましたね。その後も、いくつかのスポンサーのお話をいただき、最終的な赤字は400万円くらいで済みました。あの年、福島で起こったことを考えれば、これはもう奇跡と言っていいですよね」

 クラブが未曾有の危機を乗り越えられた理由について尋ねると、即座に「かかわる人間、支える人間の思いに尽きると思います」という答えが返ってくる。その後、福島は12年にJFL昇格を果たし、J3入りを果たした今季はサポーターの個人会員が4000人弱、スポンサー企業は小口を含めて400社を越えるまでになった。地元の金融機関やメディアが株主となっており、かつてのような不健全な経営をするリスクも一気に下がった。ようやく一息ついた福島が、次に目指すものは何か。鈴木の答えは明快であった。

「この3年でJ3で優勝できるくらいの力をつけて、5年でJ2に上がれればと思っています。それよりも優先させたいのは、練習場の確保ですね。現在は十六沼にある人工芝2面を使っていますが、専用ではないので週末は使えません。ここに天然芝と人工芝、それぞれ2面ずつ増やしていくことで市とは話をしています。完成すれば、近隣の飯坂温泉とタイアップしながら、東京五輪のキャンプ地や少年サッカーの合宿を誘致して、地元に還元することができます。まあ、経営陣のトップなので『勝たなくてもいい』とは決して言いませんが、今は急いでJ2に上がる必要はないとも考えています」

銀行員J3リーガー、時崎塁の夢

福島のレジェンド、時崎塁。銀行員との二足のわらじで、8シーズンにわたりプレーしてきた 【宇都宮徹壱】

 福島のメインスポンサーのひとつ、東邦銀行の本社ビルは、JR福島駅から歩いて10分ほどのビジネス街に位置している。受付で要件を伝えると、ほどなくしてスーツ姿の時崎塁が現れた。チーム最古参となる今季8年目。元Jリーガーの実兄・時崎悠(昨シーズンまで福島の監督を務めた)とともに、前身のFCペラーダ福島に加入したのが07年のこと。以後、東北2部、1部、JFL、そしてJ3と4つのカテゴリーを経験。その間、彼はずっと銀行員かつプレーヤーであり続けた。現在、サッカーではお金をもらっていない、チーム唯一のアマチュア契約選手は、この数年のクラブの急激な変化をどう見ているのか。それが、時崎への取材を希望した一番の理由であった。

「一番変化を感じたのは、練習が夜から午前に変わったときですよね。あそこから一気に上を目指す感じになっていきました。選手のレベルも年々上がっているし、気がつけば自分も年齢が高いほうになりました(現在31歳)。19歳の安東(輝)なんか、もうひと回り下ですからね。どんなにハードな練習をしても元気なんで、ちょっとうらやましく思ったりしています(苦笑)」

 時崎のキャリアは、エリートとはおよそ程遠いところで培われてきた。福島東高校ではまったくの無名。明治大に進学するも、体育会のサッカー部が肌に合わず、同好会でボールを蹴っていた。ペラーダに加入したのも、「兄と一緒にサッカーがやりたい」という想いがすべてだったという。そんな無欲なプレーヤーが、気がつけば「Jの舞台」でプレーしているところにJ3リーグの懐の深さを感じるのだが、当人はどう感じているのだろうか。

「1年1年が勝負の年でしたね。6年かかって長年の夢だったJFLに到達して、さらにその先にJ3があったという感じ。自分としては、とにかく『全国リーグでプレーしたい』という想いがありました。震災の年も、(原発事故の影響で)福島では試合ができませんでしたけれど、サッカーができることに感謝しながら、JFL昇格を目指して頑張ることができました」

 とはいえ、銀行員とJ3リーガーとの両立は、決して容易なものではない。午前の練習を終えて、出社するのは14時。今は期末なので21時までみっちり仕事をしている。業務以外にも、投資信託や税金や株のセールスなどを勉強する時間を確保しなければならない。練習がない日は朝から出社し、逆に仕事が休みの日は基本的に試合がある。完全オフの日は、年に数えるほどしかない。先日の盛岡戦では16試合ぶりの出場を果たしたが、今季の出場数は26節まででわずか6試合にとどまっている。

 時崎自身、J3で戦い続けることへの限界と、銀行員としての職務に専念することへの必要性を強く自覚していた。それでも彼には、スパイクを脱ぐまでにどうしても果たしたい夢があるのだそうだ。それは非常にささやかなものでありながら、同時にアマチュアフットボーラーの矜持(きょうじ)が強く感じられるものであった。

「全国リーグでゴールを決めたいんです。(もともとFWだったが)去年の7月からセンターバックをやるようになって、結局JFLでもゴールを決めることはできませんでした。最近、いろいろと引き際を考えていますが、やっぱり最後にゴールを決めておきたいですね。“地域リーグの男”では終わりたくないので(笑)」

<後編につづく。文中敬称略>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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