厳格かつ柔軟な新しい指揮官 就任会見から考えるハビエル・アギーレ像

宇都宮徹壱

選手と指導者としてW杯を経験した初めての監督

就任会見に臨んだアギーレ新監督(中央)。会見では「厳格さと柔軟さ」を感じさせた 【宇都宮徹壱】

 第一印象は「鬼教官」であった。

 意志の強さを感じさせる角ばったあごの輪郭と、少しばかり「へ」の字に曲がった口は、なんとなくロシア代表監督のファビオ・カペッロを想起させる。身長はさほど高くはないが(170センチ台か)、銀色がかった白髪が何ともいえぬ貫禄を感じさせる。もっとも代表監督としては、まさに脂が乗り切った50代。「健康面を考慮して、60歳以上の指導者は避けたい」というのは、「ポスト・ザッケローニ」を選ぶ上で、日本サッカー協会(JFA)が重視した条件であったと聞く。

 ハビエル・アギーレ。1958年12月1日生まれの55歳。日本で言えば昭和33年の戌(いぬ)年。この年に生まれたサッカー関係者を挙げると、山本昌邦、金田喜稔、木村和司(いずれも解説者)、佐々木則夫(女子日本代表監督)、そしてこの日の会見に同席した原博実JFA専務理事兼技術委員長もまた、新監督と同い年である。ちなみに名前の発音は「アギレ」ではなく「アギーレ」であることを会見の場で当人が明らかにしているので、今後は後者で統一されるはずだ。

 ここであらためて、アギーレのキャリアをおさらいしておこう。 出身はメキシコシティだが、両親はスペインからの移民で、独自の文化と言語を持つバスク系の出身。76年にメキシコのクラブ・アメリカでプロ選手としてのキャリアをスタートさせ、米国、スペインも含めて6つのクラブを渡り歩く。83年から92年までメキシコ代表としてもプレーしており、86年のワールドカップ(W杯)にも出場。当時は背番号13番のMFだった。

 指導者に転じてからは、CFアトランテ、CFパチューカ(いずれもメキシコ)、オサスナ、アトレティコ・マドリー、レアル・サラゴサ、エスパニョール(いずれもスペイン)で指揮。その間、2度メキシコ代表監督を務めており、2002年と10年のW杯でいずれもベスト16に導いている。歴代の日本代表監督で、過去にW杯でチームを率いた監督(フィリップ・トルシエ、イビチャ・オシム、岡田武史)、あるいは現役プレーヤーとしてW杯に出場経験のある監督(ファルカン、ジーコ)はいたが、選手と監督両方でW杯を経験しているのは、実はアギーレが初である。

アギーレを決断させた原技術委員長のアプローチ

「最初にJFAの大仁(邦彌)会長、原専務理事にお礼を申し上げたい。今回、こうして代表チームの監督に選んでくれて名誉に思っている」

 日本代表新監督の会見が行われたのは、台風一過で真夏の青空が戻ってきた8月11日。注目されたアギーレの第一声は、その強面のイメージとは少し違って、極めて謙虚なものであった。そして「(日本という)素晴らしい選手が多い国で代表監督をやれることを、とてもうれしく思っている。18年のW杯ロシア大会にはぜひ出場したいと思う」と、早くも4年後に向けて意欲を示した。

 アギーレの指導者としての手腕に関しては「短期間でチームを立て直すのが上手い」「現有戦力を活用して好成績を挙げる術に長けている」「戦術的な引き出しが多く、堅守速攻サッカーもパスサッカーもできる」といったポジティブな評価がある一方で、本国メキシコからは「長期政権になるとチームのバランスが崩れる」「好き嫌いで選手を選ぶ傾向がある」といった厳しい意見も聞こえてくる。多少の難点はあるにせよ、それでも今の日本代表にはうってつけの人材であると言えそうだ。

 興味深く感じられたのは、アギーレが日本代表監督のオファーを受諾した経緯である。もともと彼は、4年前の日本代表監督候補のひとりであった。結果として家族の問題などでオファーを断り、諸条件をクリアしたアルベルト・ザッケローニが就任したわけだが、それでも原技術委員長との交流はその後も続いていたという。

「実は今回、スペインのクラブチームからオファーがあったし、他の代表監督にならないかという話もあった。その中で日本を選んだのは、10年のW杯のあとに原さんと霜田さん(正浩=技術委員)が声をかけてくれ、再度オファーをしてくれたこと。そして一度お断りしてからも、私の仕事をきちんと見ていてくれたこと。そういったことに惹かれて、今回日本代表の監督を引き受けることを決意した」(アギーレ)

 すでに専務理事に専念することが既定路線となっている原技術委員長が、今回の監督選びで陣頭指揮を執っていたことについては、個人的にずっと違和感を抱いていた。なぜなら後任の技術委員長は、自分が選んだわけではない監督と仕事をすることになり、最終的にアギーレへの任命責任が曖昧(あいまい)になると考えたからだ。しかし、アギーレとの信頼関係の持続という一点においては、原委員長が直接交渉に当たったことが奏功したという事実は、やはり認めなければなるまい。なお、この日の会見で大仁会長は、原技術委員長とともに交渉にあたった霜田技術委員が、後任の技術委員長となる方向であることを明らかにしている。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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