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ボスニア敗退…現実になったオシムの危惧
本命の立場には合わないメンタリティー

袋小路に迷い込んだ指揮官

W杯に向けてのチーム作りがうまくいかず、袋小路に迷い込んだスシッチ監督。主力選手との対立もあった
W杯に向けてのチーム作りがうまくいかず、袋小路に迷い込んだスシッチ監督。主力選手との対立もあった【Getty Images】

 戦前の1989年に発表されたディノ・メルリンのヒット曲『Bosnom behar probeharao』(ボスニアに花が咲いた)のサビ部分は、ボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)のサポーター間で歌われる人気の応援歌だ。


「ボスニアに花が咲いた。私は自分の人生に失望した。あちこちで花は彼女のように香るが、私は溜息をついている」


 同郷サラエボのイビチャ・オシムも好んで聴くという国民的歌手は、こう首を傾げる。


「なぜサポーターがこの歌を選んだのか私も説明できないよ。勝利を祝う際にも歌われるが、元はといえば私の人生がまったくバラ色じゃない頃に制作したのだから」


 ワールドカップ(W杯)初出場を契機に新たな応援歌が次々に作られても、やはりサポーターが好んで歌うのは25年前の失恋ソングとなる。相反する感情が常に同居する「アンビバレント」(二律背反)なボスニア気質が顕著に現れた一例だ。


 それだけにボスニアの人々の「愛情から憎悪」「賞賛から批判」(もしくはその逆)の移り変わりも極めて早い。ボスニア代表がW杯出場を決めたのは昨年10月。到着が深夜3時だったにもかかわらず、凱旋(がいせん)したチームを5万人以上のサラエボ市民が歓迎した。しかし、国家的偉業に酔いしれるのも束の間、サフェト・スシッチ監督は袋小路に迷い込んだ。W杯仕様のチーム作りがうまくいかず、その後のテストマッチで連敗が続く。

未曾有の災害を機に再び彼らは一枚岩となった

 最大の緊張を迎えたのは今年3月のエジプト戦。故障明けで前半のみの出場予定だったFWエディン・ジェコに対し、スシッチ監督は一方的に両者間の約束を破って90分間酷使。その事情を知らずにエースストライカーの不出来に怒るサポーターから「ジェコ、出て行け!」と合唱されたことで彼は深く傷つき、試合後は実父がスシッチ監督を怒鳴りつけた。


 さらに手薄なボランチを強化するという名目で、本来は攻撃的MFである甥っ子のティノ・スベン・スシッチを縁故招集。彼の父で監督の実兄セアドが代理人を務めるMFアネル・ハジッチも新加入した。その犠牲として不遇の時代を一緒に支えた仲間が代表からはじかれたことに、主将のDFエミール・スパヒッチは監督と対立する。世論は「スシッチは無能」「選手達が傲慢」と矢継ぎ早に糾弾を始め、チームは制御不能になりかけていた。


 風向きが変わるきっかけは、5月中旬に襲った水害だった。記録的な集中豪雨によりバルカン半島各地で大洪水が発生し、ボスニアも北部を中心に100万人以上が被災してしまう。北部の都市グラダチャツで予定されていた壮行試合(対ボスニアU−21代表)は開催が危ぶまれたが、チャリティーマッチに趣意を変えて決行。バスで移動したズマイェビ(「竜」を意味する代表の愛称)の一人ひとりが被災地を目にし、決意を新たにしたことだろう。スタジアムを埋め尽くしたサポーターもボスニア国歌を静かに聴き、演奏後は清らかな拍手を送った。今は溜息をつく暇はない。未曾有の災害を機に再び彼らは一枚岩となったのだ(※ムスリム人、セルビア人、クロアチア人で構成される同国家でボスニア代表を応援するのはもっぱらムスリム人だが、彼らは現国歌を好まず、演奏の際はメルリンが作詞したムスリム人による旧国歌を被せるのが慣例)。

救世主となった21歳のボランチ

 ボランチ探しに難航するスシッチ監督にとって新たな救世主になったのが、21歳のムハメド・ベシッチだ。ベルリン生れのボスニア移民二世である彼は、2010年11月のスロバキア戦でMFミラレム・ピャニッチの記録を塗り替える最年少代表デビューを果たす。しかし、素行の悪さがたたってハンブルガーSVを退団したあげく、U−21代表監督ブラド・ヤゴビッチと馬が合わず同カテゴリーの招集を拒否したため、スシッチ監督はベシッチを完全に構想外に追いやっていた。


 しかし、都落ちしたフェレンツバロシュ(ハンガリー)で輝きを増し、本職のストッパーに加えて右サイドバック、そしてボランチもこなせる彼こそ「エルビル・ラヒミッチの後継者」と考える意見は少なくなかった。半ば世論に押される形でスシッチ監督はベシッチを代表復帰させたが、それが功を奏する。


「私はベシッチをストッパーとして呼んだわけじゃない。誰かがメッシを止めるとしたら、彼がそのタスクをこなせるだろう」


 5月5日にW杯メンバー候補24名を発表した際、おそらくスシッチ監督は「今更感」を打ち消そうと大袈裟に語ったと思う。ベシッチ本人も「招集は予想してなかった」と驚いたが、「24番目の選手」の彼こそラストピースであることを合宿中に確認した指揮官は、予選の4−1−3−2システムを放棄。出足が速く守備力も高いベシッチをボランチの一角に据えた4−2−3−1システムに変更した。これにより攻守のバランスが急激に改善されたボスニアは、コートジボワールとメキシコを開幕前の親善試合で撃破。ようやくチームも自信を取り戻した。

長束恭行
長束恭行

1973年名古屋生まれ。サッカージャーナリスト、通訳。同志社大学卒業後、都市銀行に就職するも、97年にクロアチアで現地観戦したディナモ・ザグレブの試合に感銘を受けて退職。以後はクロアチア訪問を繰り返し、2001年に首都ザグレブに移住。10年間にわたってクロアチアや周辺国のサッカーを追った。11年から生活拠点をリトアニアに。訳書に『日本人よ!』(著者:イビチャ・オシム、新潮社)、著作に『旅の指さし会話帳 クロアチア』(情報センター出版局)。スポーツナビ+ブログで「クロアチア・サッカーニュース」も運営

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