女の戦い「ケリガン事件」…彼女たちのその後=プレーバック五輪 第13回

長谷川仁美

ケリガン(右)とハーディング。94年リレハンメル五輪直前に、その事件は起こった 【写真:picture alliance/アフロ】

 1994年1月6日、リレハンメル五輪1カ月ほど前の米国。フィギュアスケート女子シングル選手のトーニャ・ハーディング(当時23歳)が元夫と共謀して人を雇い、ライバルのナンシー・ケリガン(当時24歳)の右膝上を強打させた事件が起こった。スケート靴を履いたままのケリガンが座り込み「なぜ? なぜ私なの?」と泣いている映像を覚えている方もいるだろう。

 事件2年前のアルベールビル五輪で銅メダリストとなったケリガンは、次の五輪での金メダルが期待されていた。一方のハーディングも、20歳でトリプルアクセルを決めて全米選手権に初優勝した直後、初出場の世界選手権で2位。アルベールビル五輪でも4位となり、五輪優勝を狙っていた。
 事件による膝の故障のために五輪代表選考の全米選手権に出場できなかったケリガンだが、演技できる体調に戻すという条件で五輪代表に。2枠だった米国女子のもう1人は、その大会で優勝したハーディングに決まった。

 事件2週間後、ハーディングの元夫(といっても、この1日前に離婚を発表したばかり)の事件関与が明らかになった。「ケリガンが五輪に出ずに元妻が五輪金メダリストになれば、ショーの出演料や広告料など多額のお金が入ってくる」と考えたと。その数日後、ハーディング自身も「襲撃計画を知っていた」と認めたが、彼女は五輪出場を手放さなかった。
 不幸中の幸いだったのは、ケリガンの膝には骨折や靱帯の損傷などがなく、事件から2週間後には氷に降りて通常の練習を始められたことだろう。そして、2人はそれぞれ、五輪に向かった。

ハーディングは五輪本番で「靴ひも事件」も

 ライバル襲撃というスキャンダルの渦中にいたハーディングは、五輪期間中にもちょっとした騒動を起こした。2月25日、リレハンメル五輪女子シングルフリースケーティング。10位で迎えたハーディングは名前がコールされてもなかなか登場せず、失格直前にリンクに現れた。そして演技冒頭の3回転ルッツが1回転になると演技をやめ、泣きながら「取り換えた靴ひもが短すぎて、靴が緩んだ」とジャッジに訴え、そのグループの最後に再び演技することを許可された。彼女はこの前年、全米選手権で首の後ろでコスチュームをとめている紐がほどけたため演技を止め、スケートアメリカではブレードのビスが緩んだと自ら演技を止めた経験がある。2度目のフリーでは、1度目の演技では失敗した3回転ルッツも決めて笑顔を見せたが、キス&クライでは、不自然に立ったまま――コーチたちの座るいすの後ろ側の、前から靴が見えない位置で――得点を待った。
 テクニカルプログラム(当時ショートプログラムはこう呼ばれていた)1位のケリガンは、3回転−3回転を跳んだ後からぐんぐん力を増し、最後にはスタンディングオベーションを誘って、銀メダリストとなった。優勝したのは、フリー当日に右すねを3針縫ったことに負けなかったオクサナ・バイウル(ウクライナ)。ハーディングは8位だった。

対照的な2人の人生

 その後、ハーディングは司法取引をして襲撃計画の罪を認め、3年の執行猶予の判決を受けた。アイスショーに呼ばれず、バンド活動をしたり、ボクサーになったり、結婚・離婚を繰り返したり。子どもの頃からの母親との確執や、半分血のつながった兄からの虐待など、情緒的に恵まれたとはいえない家庭環境の中で、持病のぜんそくとつきあいながらトリプルアクセルまで跳べるようになった彼女に、言い訳をせず自分の弱さと向き合う勇気があったなら……。

 一方のケリガンは五輪後、多数のスポンサーと契約し、プロスケーターとして数々のアイスショーに招聘(しょうへい)された。彼女の育った家庭は典型的なブルーカラーで、父親の年収を上回ったスケート関連費用や家族の応援旅行費用を捻出するのにずっと苦心していたが、末っ子のケリガンをサポートしつづけた。ケリガンには、温かい家庭があった(ただし2010年には、ケリガンの兄が父親を死亡させる事件も起きているが……)。

 天賦の才能や恵まれた環境だけでなく、家族の献身的なサポートやスケーター自身の強さも、このスポーツには欠かせないことが浮かんでくる。実際に殴打されたケリガンにとっても、苦しい人生を歩まざるを得なかったハーディングにとっても、痛ましい事件だった。

<了>
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著者プロフィール

静岡市生まれ。大学卒業後、NHKディレクター、編集プロダクションのコピーライターを経て、ライターに。2002年からフィギュアスケートの取材を始める。フィギュアスケート観戦は、伊藤みどりさんのフリーの演技に感激した1992年アルベールビル五輪から。男女シングルだけでなくペアやアイスダンスも国内外選手問わず広く取材。国内の小さな大会観戦もかなり好き。自分でもスケートを、と何度かトライしては挫折を繰り返している。『フィギュアスケートLife』などに寄稿。

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