女の戦い「ケリガン事件」…彼女たちのその後=プレーバック五輪 第13回
ケリガン(右)とハーディング。94年リレハンメル五輪直前に、その事件は起こった 【写真:picture alliance/アフロ】
事件2年前のアルベールビル五輪で銅メダリストとなったケリガンは、次の五輪での金メダルが期待されていた。一方のハーディングも、20歳でトリプルアクセルを決めて全米選手権に初優勝した直後、初出場の世界選手権で2位。アルベールビル五輪でも4位となり、五輪優勝を狙っていた。
事件による膝の故障のために五輪代表選考の全米選手権に出場できなかったケリガンだが、演技できる体調に戻すという条件で五輪代表に。2枠だった米国女子のもう1人は、その大会で優勝したハーディングに決まった。
事件2週間後、ハーディングの元夫(といっても、この1日前に離婚を発表したばかり)の事件関与が明らかになった。「ケリガンが五輪に出ずに元妻が五輪金メダリストになれば、ショーの出演料や広告料など多額のお金が入ってくる」と考えたと。その数日後、ハーディング自身も「襲撃計画を知っていた」と認めたが、彼女は五輪出場を手放さなかった。
不幸中の幸いだったのは、ケリガンの膝には骨折や靱帯の損傷などがなく、事件から2週間後には氷に降りて通常の練習を始められたことだろう。そして、2人はそれぞれ、五輪に向かった。
ハーディングは五輪本番で「靴ひも事件」も
テクニカルプログラム(当時ショートプログラムはこう呼ばれていた)1位のケリガンは、3回転−3回転を跳んだ後からぐんぐん力を増し、最後にはスタンディングオベーションを誘って、銀メダリストとなった。優勝したのは、フリー当日に右すねを3針縫ったことに負けなかったオクサナ・バイウル(ウクライナ)。ハーディングは8位だった。
対照的な2人の人生
一方のケリガンは五輪後、多数のスポンサーと契約し、プロスケーターとして数々のアイスショーに招聘(しょうへい)された。彼女の育った家庭は典型的なブルーカラーで、父親の年収を上回ったスケート関連費用や家族の応援旅行費用を捻出するのにずっと苦心していたが、末っ子のケリガンをサポートしつづけた。ケリガンには、温かい家庭があった(ただし2010年には、ケリガンの兄が父親を死亡させる事件も起きているが……)。
天賦の才能や恵まれた環境だけでなく、家族の献身的なサポートやスケーター自身の強さも、このスポーツには欠かせないことが浮かんでくる。実際に殴打されたケリガンにとっても、苦しい人生を歩まざるを得なかったハーディングにとっても、痛ましい事件だった。
<了>
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ