“卒業”の寺川綾が教えてくれたこと=美人スイマーの葛藤を乗り越えて

萩原智子

華やかなデビューと苦難の道のり

美人スイマーとしての苦悩や葛藤、挫折を乗り越え、寺川は最後に夢をかなえた。そんな競技生活を振り返り、最高の笑顔で現役を“卒業”した 【Getty Images】

 ロンドン五輪・競泳の銅メダリスト、29歳の寺川綾選手(ミズノ)が、現役引退を表明した。今年の夏に世界選手権(バルセロナ)でも、日本の女子選手としてただ一人、そして日本女子最年長のメダリストとなった。最後の最後まで世界の舞台で戦い、日本チームを引っ張ってくれた大ベテラン。少し寂しい気もするが、彼女自身が決断した引き際、第二の人生のスタートを心から応援したい。

 寺川選手が世界デビューを果たしたのは、今から12年前、近畿大附属高2年のときに出場した2001年世界選手権(福岡)。当時、私も日本代表のチームメートとして共に過ごしたが、現在も寺川選手のトレードマークと言われる“屈託のない笑顔”と、高校生ながら物おじせず、先輩スイマーたちに話し掛ける姿を、今でも印象深く覚えている。
 初めての世界大会で決勝進出を果たし、大きな注目を集めるようになった寺川選手。かつての指導者から「あなたはかわいいから、上を向いて泳ぎなさい」と言われ、背泳ぎを専門にするようになったという逸話があるほどの、美しく愛くるしい容姿に、周囲は色めき立った。五輪へ向けて、“美人アイドルスイマー”としての期待を一身に背負ってきた。

 順調に成長を遂げた寺川選手は、19歳で迎えたアテネ大会で五輪に初出場。見事、そこでも決勝進出を果たす。しかし、その後の競技人生は決して順風満帆ではなかった。日本代表チームに入ることすらできない時期を経験した。23歳で臨んだ北京五輪の代表選考会でも、無念の代表落選を味わうことに。

 そのレース後、インタビューエリアで大粒の涙を流した彼女の姿は、とても痛々しかった。周囲から「長い間、お疲れさま」と、まるで引退する選手をねぎらうかのような言葉を掛けられ、ショックを受けたという。しかし、そんなつらい経験が「自分はまだ終わっていない」「もう一度、五輪で戦いたい」という寺川選手の思いを、より一層強くかき立てたのだ。

忘れられない、ロンドン五輪レース前の表情

 落選した北京五輪の終了後、寺川選手は北島康介選手(アクエリアス)を育てた平井伯昌コーチへの弟子入りを志願する。当時、平井コーチは、寺川選手を「失敗の引き出しが多く、自分を信じることができていない。周りにどう見られるか、気にし過ぎている」と指摘していた。

 平井コーチは寺川選手と何度もミーティングを重ね、とことん向き合うことで、彼女を変心させた。
 例えば、寺川選手の発する言葉の変化。それまでは「メダル獲得」という目標を、自ら進んで口にすることはなかったし、何か具体的な目標を発する際も、誰かに言わされているような感じが否めなかった。しかし、ロンドン五輪が近づくにつれて、次第に寺川選手は「本気でメダルを狙いたい」と自ら宣言するようになっていく。

 私にも彼女の覚悟を感じた瞬間があった。10年パンパシフィック選手権。寺川選手が銀メダルを獲得したレース直後、当時、日本代表のチームメートであった私は、彼女を祝福した。しかし、いつもは笑顔を見せる寺川選手だったが、そのときはさえない表情をし、顔を横に振り、祝福したこちらがハッとするような、明らかに納得していない表情を見せた。そのとき、私は気づかされた。『寺川選手は私が思っていたより、もっともっと高い目標……金メダル獲得だけを目指していたのだ』と。

 そんな強い覚悟を胸に、27歳、競泳チーム女子最年長として寺川選手が迎えた、昨年のロンドン五輪。100メートル背泳ぎ決勝のスタート前の寺川選手の表情を、今でも鮮明に覚えている。『覚悟を決め、やるべきことをすべてやり切った人の表情は、こんなにもりりしく、落ち着いているのだ……』。レース前に強く感じたのと同時に、寺川選手のその表情に鳥肌が立った。

 夢や目標を達成できるのは、ごく一握り。自分自身と向き合い、確固たる信念、そして自信をつけた寺川選手が、夢をつかみ取った瞬間だった。

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著者プロフィール

2000年シドニー五輪200メートル背泳ぎ4位入賞。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、現在でも4×100メートルフリーリレー、100メートル個人メドレー短水路の日本記録を保持しているオールラウンドスイマー。現在は、山梨学院カレッジスポーツセンター研究員を務めるかたわら、水泳解説や水泳指導のため、全国を駆け回る日々を続けている

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