J1川崎が重要視するメディア戦略=目指すのは「攻めて稼げる広報」

江藤高志

テレビ番組と試合の連携

Jリーグにおいてプロモーションで先駆者的な立ち位置にいる川崎。今や当たり前になったマイクパフォーマンスも川崎発信のものだ 【写真:松岡健三郎/アフロ】

 8月10日に等々力競技場で行われたFC東京との“多摩川クラシコ”に先立つ8月3日の夜。テレビ東京系のサッカー番組であるFOOT×BRAINに、川崎フロンターレの中村憲剛がFC東京の石川直宏とともに出演した。“世界から学ぶ”をテーマにした番組内でダービーマッチが取り上げられ、多摩川クラシコもその話題の一つとなる。川崎にとって、ビッグマッチを1週間後に控えたタイミングでの地上波での露出であり、営業的な効果を期待できる放送となった。あらためてこの放送について振り返ってくれたのが、川崎の天野春果プロモーション部部長である。

「試合の1週間前にこうやって特集を組んでくれて、そこにFC東京も協力してくれた。代表クラスの選手が出ることで、番組的にもうま味があるだろうし、フロンターレ的にも宣伝になる。さらには多摩川クラシコのステータスを上げることができる。これだけ地上波でサッカー番組がないときにこういう切り口でやってくれた。これは宣伝効果で考えたらすごいこと」と話すと、次のように言葉を続けた。

「こういう(実際の対戦とテレビ番組とをコラボレーションさせる)チャレンジングなことはサッカー界ではなかなかやれていなくて、だから意味がある。今は非常識なことかもしれないけど、やり続ければそれが常識になる。フロンターレが発信したものとして、最初はありえないと言われていた岡山(一成)のマイクパフォーマンスがあるけど、今じゃほかのクラブでも普通になっていますしね」

 この放送が影響したかは定かではないが、等々力競技場での第22回多摩川クラシコは8月8日に「前売チケット予定販売数終了」のリリースが川崎から出るほどの盛況ぶりとなった。このFOOT×BRAINでの露出を典型例として、川崎はイベントと広報戦略との連携を緻(ち)密に考えている。

イベント作りの4つのポイント

 ご存じの通り、川崎のイベントは一般人の常識をはるかに超えたものが少なくない。たとえばフォーミュラーカーが等々力の陸上トラックを走ったり、公式戦のハーフタイムに南極からのライブ中継を実現させたりと、その斬新さは枚挙にいとまがない。これらのイベントを次々と企画立案し、成功させてきた責任者が天野である。天野は2011年に、川崎でのプロモーション活動についてのノウハウを記した『僕がバナナを売って算数ドリルをつくるワケ』を出版。またテレビへの出演をはじめ、精力的に講演活動を行っており、川崎サポーターのみならず広くJクラブサポーターにその名前を知られた存在だ。プロモーションのプロフェッショナルとも言える天野が、イベントを立案する際に心がけている4つのポイントを教えてくれた。

「まず、選手のタレント性を使うやり方。たとえば中村憲剛や大久保嘉人といった選手は、代表でプレーし、メディアでもたびたび取り上げてもらっている。だから彼らに協力してもらってのPRは伝えやすい。でもこれ以外にも、地域性や、社会性、公共性といった要素があって、これらをうまく組み合わせて熟成させて話題として出していくわけです」

 つまりタレント性、地域性、社会性、公共性の4つのポイントをどのようにイベントに組み込むのかをまずは吟味し、それをどのメディアに売り込むのかを明確化させるのである。一例を上げると、7月6日の鹿島アントラーズ戦で行われた“闘A!まんがまつり”には、地域性(川崎市が題材となったまんががあった)が入っており、そうした地域財産を掘り起こすという意味の公共性、社会性も入ってくる。これらに中村らのイラストを書いてもらうことでタレント性が加わり、話題作りになるのだという。こうしたイベントの概要が固まる中、広報グループが動き始める。

広報としてのあり方

 ここで、川崎の広報グループについて説明しておく。川崎の広報グループは、組織的には天野が部長職に就くプロモーション部の傘下に位置づけられており、この連携は緊密だ。そして天野の片腕となり広報グループを取り仕切るのが熊谷直人である。熊谷は川崎がJ1に昇格した00年に広報担当に就任し、以来川崎の広報業務の最前線に立ってきた。試行錯誤の末、今は「攻めの広報」を追求していると話す熊谷も、就任当初は広報業務に関しては手探りだったという。

「当時はクラブとしても自分自身にも広報のスキルが全くなかった。ただ、当時川崎はJ1にいて、多くのメディアの皆さんに取り上げてもらえていました。ですから取材に来てくれたものをさばく。受け身の広報でした。ところが01年にJ2に落ちた途端に取材してもらえなくなってしまった。練習場だけでなく、試合会場に来るメディアも激減。チームの情報をメディアを通して伝える環境がゼロに近い状況になってしまった。やはりJ2の川崎フロンターレというクラブはメディアのみなさんからしてみたらチームとしての魅力がなかったわけです。そういうところから広報というものをしっかり考え直さなければと認識したわけです」

 そこで熊谷は考えた。どうすればメディアに取り上げてもらえるのか。

「結局情報をどう伝えるのかの問題なんですね。取材してもらうには、まずはメディアの皆さんに知ってもらう必要がある。それで初めてニュースになり、ファンやサポーターの皆さんに伝えることができるわけです。その時にフロンターレの企画力が生きてくる。これは00年当時からJ1でもJ2でもトップクラスの力がありましたからね。選手やチームの状況といったサッカー本来の情報に加え、うちのクラブでは違う側面からもアプローチすることができた。そういう面では伝えやすい状況がありました」

 J2でもまれる中、03年ころから徐々に観客が増え始め、04年には圧倒的な強さでJ2を勝ち上がる。そのタイミングでジュニーニョ(現鹿島)や中村といったスター性のある選手がポツポツと出始める。仕掛けるタイミングとしては、最適だった。

「クラブとして将来性、スター性があるという選手は、無理にでもお願いしてなるべくメディアの露出に協力してもらっていました。その典型が我那覇和樹(現FC琉球)や中村です。彼らにはサッカー選手としての将来性や実力を感じましたし、天野が言うタレント性もありました」

 そうやってメディアへの露出が増えることで、選手にはタレント性が備わる。チームも成績を残すようになると、メディアからの取材依頼も増えてくる。そんな状況で熊谷が考えていたのが「立ち位置」だったという。

「私はクラブの人間ではあるんですけど、選手とメディアのどちらに立ち位置を合わせるのかは大事でした。選手側に立ち位置を合わせてしまうと、クラブを守って選手を守ってというスタンスになりがちになり、メディアに対してうまく対応できなくなる。逆にメディア側に立ちすぎると、選手側から不満が出てしまう。もちろんクラブの人間だから根本的にはクラブ側であり選手側ではあるんですけど、ニュートラルなポジションに立つようにはしていました。俯瞰(ふかん)的に両方のバランスを見て、両者が気持ちよく取材でき、どちらにもメリットがあるように意識していました」

 時に熊谷は、取材を嫌がる選手をなだめ、オファーが来れば可能な限り取材を受けるスタンスを取ってきた。メディアに対する受け答えも適時指導しており、元々コミュニケーション能力の高い中村ですら冗談で「熊谷さんに鍛えられたからね」と言うほどだった。そうした、クラブの一番の商売道具である選手や監督に積極的に取材を受けさせ、そうすることでクラブを売り込む一方、取材のしやすさを武器にメディアを味方に付けたのである。

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著者プロフィール

1972年、大分県中津市生まれ。工学院大学大学院中退。99年コパ・アメリカ観戦を機にサッカーライターに転身。J2大分を足がかりに2001年から川崎の取材を開始。04年より番記者に。それまでの取材経験を元に15年よりウエブマガジン「川崎フットボールアディクト」を開設し、編集長として取材活動を続けている。

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