クラブの存続を左右した激動の1年=奇跡の甲府再建・海野一幸会長 第2回

吉田誠一

左遷人事と捉えられるほどの甲府の経営状況

海野は2001年の取締役会にて、ヴァンフォーレ甲府の存続のための経営方針を訴えた 【写真:ヴァンフォーレ甲府】

 企業はいわば「生き物」であり、その生き死には組織にかかわる人の力に懸かっている。もちろんJクラブにも同じことが言える。2000年末に瀕死の状態に陥っていたヴァンフォーレ甲府が再生できたのは、翌年2月、海野一幸が社長(現会長)に就いたからこそである。

 しかし、当時、山日YBSグループの広告代理店であるアドブレーン社の常務だった海野は甲府社長就任を左遷人事ととらえ、海野を指名した山梨日日新聞社長の野口英一に「私をクビにしたいのなら、クビと言ってください」と迫った。
 その夜はやけ酒をあおり、日川高校の同級生であり、山日グループの顧問弁護士だった古屋俊仁に電話で「どうしてオレが行かなきゃならないんだ」と愚痴を重ねた。与えられた役割はクラブの再建ではなく整理であり、自分は汚れ役を負わされたのだと海野は解釈した。

 それほど甲府の経営状態はひどかった。2000年度の営業収入はわずか1億8000万円ほど(うち約5000万円はJリーグからの配分金)で、累積債務は4億5000万円を超えていた。
 資金繰りが悪化し、遠征費やスタジアムの使用料の支払いが滞り、10月には選手への給料の遅配に陥った。当時の社長の深澤孟雄が前職の退職金1100万円をつぎ込んでしのぐほどの惨状だった。深澤は前年にも山梨県サッカー協会会長の横森一成とともに家屋敷を担保にし、5000万円を借り入れてクラブに投じている。

海野が称える甲府の救世主

 そもそも、甲府の経営は発足当初から杜撰(ずさん)を極めていた。クラブの前身は1965年に教員を中心に設立した甲府クラブで、日本フットボールリーグ(JFL)時代の97年にJリーグ入りを目指し、県内企業や行政などの出資で株式会社化した。だが、実態は本来経営すべき甲府クラブ側が、それまでの経営の難しさを知ってか、当時の山梨県サッカー協会副会長の深澤に押し付けた形でのスタートであった。深澤は元高校教師で、経営や営業とは無縁の経歴。古屋は「甲府のような小さな地方都市でプロスポーツなど成り立つわけがない」とプロ化に反対したという。

 クラブは初年度に財政基盤が整っていないにもかかわらず、無理なチーム強化に走り、いきなり約1億5000万円もの赤字を出した。
 99年にJ2入りしたものの、2000年はチームの成績が惨憺たるものだった。5月から1分けを挟んで25連敗し、4カ月も白星から見放された。この年は入場者が1000人に満たなかった試合が5つもある。経営危機を知る関係者のほとんどがクラブの存続に悲観的だった。

「あの人がいなかったら、甲府はこのとき消滅していた」と海野が称える人物がいる。総務省から山梨県に出向し、総務部長を務めていた平嶋彰英(現総務省大臣官房審議官)はシニアチームでプレーするサッカー好きで、当時から甲府のクラブサポーター会員だった。その平嶋が「いまクラブをつぶしてはならない」という強い思いを抱き、水面下で奔走し始めた。

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